播州赤穂の浅野家5.0万石は断絶し、家来どもは浪人になりました。藩主の弟である浅野大学は3000石の旗本でしたが、彼も領地を取り上げられてしまいました。彼の領地は、もともとは赤穂浅野家5.3万石の一部だったので、一緒に幕府に返すべきだと考えられたからです。
赤穂浪士たちは、「いくらなんでも御家取り潰しは、過酷に過ぎる」として御家の再興を目指しました。具体的には、内匠頭の弟の大学を藩主にしようとしたのです。
また、赤穂浪士たちは、「この事件は喧嘩ではない」という幕府の判断に納得しませんでした。「浅野内匠頭は吉良上野介に恨みを抱いていた」ということが事実認定されたのだから、両者は以前から喧嘩状態にあったわけで、江戸城内の刃傷はそれが表面化したに過ぎない、というわけです。「喧嘩両成敗」という武家の伝統的な法は、両者とも同じ刑罰を課すのが原則です。浅野内匠頭が死刑になったのだから、相手の吉良上野介も死刑にするべきだ、というのです。
結局赤穂浪士たちは、二つの運動方針を決めました
1)亡き主君の弟である浅野大学を藩主に据えた御家の再興が主目的である
2)吉良上野介の処罰をも副次的に幕府に求める
そして、「この方針を実施するについては、大石内蔵助の指示に従う」ということを126人が約束しました。
江戸幕府の軍役規定は、大名は1万石につき200人の軍役を負担すると定めています。赤穂浅野家は1000人の軍隊を動員する義務があったわけで、そのために350人の武士を養っていました。残りの650人は百姓から足軽を募るわけです。
350人の武士の内、126人が大石内蔵助と行動を共にすると誓いました。この中には足軽や下級武士はほとんどいませんでした。彼らには浅野家に所属しているという意識がなく今で言う契約社員で、地域社会に密着していたので他に仕事を見つけることができたのです。
また上級家臣には財政や経営管理など高度な専門性を備えている者が多くいました。彼らは他藩に再就職するチャンスが多かったので、藩の再興を目指す内蔵助の行動に賛同する者は多くありませんでした。
結局、126人の多くは100~200石の中級武士でした。彼らは現代の企業の課長クラスの正社員とでも言うべき存在で、特に専門性もないので今さら他社に再就職も難しい、という感じです。