浅野内匠頭が切腹し、御家が取り潰された後、赤穂浪士たちは、二つの運動方針を決めました1)亡き主君の弟である浅野大学を藩主に据えた御家の再興が主目的である
2)吉良上野介の処罰をも副次的に幕府に求める
そして、「この方針を実施するについては、大石内蔵助の指示に従う」ということを126人が約束しました。
ところがそれから1年後に、幕府は上記の赤穂浪士の要求を二つとも拒否してしまいました。御家再興の望みが絶たれたので、赤穂浪士としては幕府に配慮をする必要がなくなりました。そこで、彼らは吉良上野介を殺して亡君の恨みを晴らすことにしました。
浅野内匠頭は、「吉良上野介に恨みがある」と言っていました。それが具体的にどのような恨みだったのかは、彼は一切説明していないので、誰も知りませんでした。しかし、とにかく浅野内匠頭が吉良上野介に恨みを抱いていたということは、幕府の役人・家来である赤穂浪士たちなど関係者全員の共通認識になっていました。
浅野内匠頭は恨みを晴らそうとして吉良上野介に斬りつけましたが、軽傷を負わせただけで殺すことはできませんでした。吉良上野介は幕府から何の咎めも受けず、その後ものうのうと暮らしています。
赤穂浪士たちは、亡き主君の無念を考えて堪らない気持ちになりました。当時の侍にとって仇討をすることが正義であり、神様も赤穂浪士と同じ立場にいたら、仇討をするに決まっています。
幕府は、吉良上野介には何の罪もないと判断しました。また、浅野内匠頭は裁判によって死刑になったのであって、別に吉良上野介が殺したわけではありません。法的には吉良上野介は、何の罪もありません。従って赤穂浪士たちが徒党を組んで吉良上野介邸に討ち入って彼の首をはねることは、犯罪行為です。
しかし赤穂浪士たちは、神様も認める正しいことを行うのであれば、社会の法律に反してもやむを得ないと考えました。この誠の考え方に従って、彼らは討ち入りを決行したのです。