赤穂浪士の討ち入りにより、家の仕組みが分かる

300年以上前に起きた赤穂浪士の吉良上野介邸討ち入り事件を例にして、日本の「家」という制度を考えてみようと思います。

「家」を武士の時代に固有の古臭い制度だと思っている人が多いですが、実際はその原型は奈良時代以前に遡ることが可能です。家の制度は、武士だけでなく商家や農家でも採用されていました。明治になっても家制度は健在で、現在の日本でも企業や官庁の形で存在しています。

また、「家」を血族組織だと思っている方も多いと思いますが、血縁は擬制です。江戸時代の大名家は御家が断絶することを恐れて、血縁関係にない者を養子に迎えた例が多くあります。

外様大名などは徳川将軍家の一族を積極的に養子に迎えて、御家の存続を図りました。商家は優秀な経営者を得ようとして実の息子を排除して養子を迎えたことも多々あります。明治時代から昭和初期の政治家や実業家を調べてみても、血縁関係ない家に養子に行って苗字を変えた者が数多くいます。

弥生時代や古墳時代といった稲作をやり始めた時の日本の土木技術レベルが低く丈夫な堤防を作ることができなかったので、水田は大雨や洪水によって土砂に埋まって荒廃してしまいました。そこで血縁関係にない農民たちがあちこちからやってきて、大勢で協力して新たな土地に堤防を作り水田を開拓しました。

日本人は古代から、厳密な父系性社会でも母系制社会でもなく、同じ場所に住み共同して働く人間は血縁関係になくても一族だ、という考えがありました。この考え方が、一緒になって水田を開拓するうちに強固になっていきました。そして、「同じ釜の飯を食い共に働く者は一族だ」という発想が固まりました。これが家の起源です。家は血縁関係というよりはむしろ共同事業体なのです。

さて、播州(兵庫県)赤穂に領地を持つ浅野家はもともと5.3万石の大名でしたが、三代目の浅野内匠頭長矩の時に、弟の浅野大学に3000石の領地を分けてやって旗本にしたために、5万石になりました。有名な赤穂浪士の事件は、この内匠頭長矩の代に起きました。

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