東芝は特異な社風を持っている

東芝は二つの企業が合併してできました。

田中製造所(1875年創業) → 芝浦製作所
白熱舎(1890年創業)       → 東京白熱電燈球製造 → 東京電気
芝浦製作所と東京電気が1939年に合併して東京芝浦電気株式会社になり、1984年に社名を縮めて、今の株式会社東芝になりました。

田中久重(1799年~1881年)は、佐賀藩に呼ばれて大砲・電信機・蒸気船の建造を行いました。明治維新後に田中製造所を創設し、電信機・水雷など海軍用兵器を製造していました。しかし官需依存が強すぎて業績が安定せず、メインバンクの三井銀行に経営の全権を委ねることにし、社名を芝浦製作所に変えました。以後、三井財閥から代々経営者が送り込まれ、発電機や工場・鉱山で使う機械類を製造する重電メーカーとして成長していきました。

藤岡市助(1857年~1918年)は、長州藩の武士で工部大学校を卒業して物理学と電信学の学者になりました。後に電球を製造する白熱舎を創設し、社名を東京電気に改めました。昭和に入ると真空管ラジオ、蓄音機などの家電メーカーとして成長していきました。

重電の芝浦製作所と家電の東京電気は、共にアメリカのGE社から技術導入をし、共に出資も受けていました。また両社は人的な関係もありました。このような関係から、1939年に合併し、業態が異なる二つの事業を東芝は抱え込むことになりました。

敗戦後は、経営がピンチになるたびに、三井銀行から経営立て直しの人材が派遣されました。1949年には、生命保険会社の社長だった石坂泰三が社長に送り込まれました。
1965年には、IHIの社長だった土光敏夫が社長に送り込まれました。
1972年には、通産官僚だった玉置敬三が社長に送り込まれました。

これらの優秀な経営者たちによって東芝は立ち直りました。彼らは、東芝を病人と見てその欠点を客観的に分析し、改革案を実施しました。彼らは、どのように説明したところで結局は「占領軍」であり、生え抜きの部下たちと一体になって働いたわけではありません。

下から上がってきた者が経営する会社であれば、社長と幹部は「同じ釜の飯を食った」仲間であり、コミュニケーションが良好で知恵を出し合って経営判断をすることが出来ます。しかし占領軍がいる会社では、このような「集団指導体制」ができません。

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