明治18年という日本が支那や朝鮮と国交を持ってから日が浅い段階で、福沢諭吉は、これらの両国は西欧の価値観を受け入れることが出来ない国である、ということに気が付きました。すなわちこれらの両国は、Freedomや誠という仲間どうしが互いに助け合うという考え方を持っていない、ということを理解したのです。
欧米列強の軍艦が日本を脅かし始めた幕末に、大アジア主義が出来ました。その後ずっと日本では大アジア主義の勢力が強かったのです。しかし福沢諭吉は、普通の日本人とは違って、この考え方が誤っていることにいちはやく気づきました。
私はかねてから、「なぜ福沢諭吉は早い段階で、日本・支那・朝鮮の三国が同盟を結んで欧米に対抗しようという大アジア主義が誤りであることに気づいたのだろう」とその理由を考えていました。
福沢諭吉が支那・朝鮮を見放したのは、金玉均という朝鮮改革派のリーダーを朝鮮政府が殺害したことがきっかけでした。金玉均は当時の日本では有名で、彼が暗殺されたことは日本中が知っていました。しかし、その事実を知って、支那・朝鮮を見放したのは、福沢諭吉ぐらいで、他の日本人は相変わらず大アジア主義を信奉していました。
福沢諭吉のことを色々と調べてみた結果、彼はFreedomの意味をよく理解していた、ということが分かってきました。Freedomは、「正しい判断をし、正しいことを行え」という考え方です。それと同時に「仲間どうしで助け合え」という隣人愛をも強調します。仲間というのは、全ての人間を指すわけではなく、信仰・考え方・言葉などが共通で「気心の知れた人間」ということです。
Freedomは、人間を「仲間」と「それ以外の人間」に分けます。そしてそれぞれに異なる対応をします。幕末・明治維新の時に日本にやってきた欧米列強は、Freedomを国家の大原則に掲げていました。ということは、相手の国家や民族を、「仲間」なのか否かを見分けようとしたのです。欧米人にとって「仲間」とは、Freedomを信奉している者です。
欧米列強が日本を仲間だと思ってくれたら、日本は植民地化を免れることができます。そこで日本は、「日本はFreedomをよく理解しております」と欧米列強に対してアピールしようとして涙ぐましい努力をしました。文明開化運動を行い、鹿鳴館でダンスパーティを催し、大日本帝国憲法を制定して、自由(Freedom)と平等(Equality)を国民に保障しました。
福沢諭吉は、慶應義塾を作ったり文筆活動をしたりして、Freedomの考え方を日本に普及させようとしていました。だから彼がFreedomの意味をよく知っているのは、当然のことでした。