福沢諭吉は、支那や朝鮮は日本の仲間ではない、と主張した

日本とアメリカは、Freedomや誠を持たない民族と交渉した経験がほとんどなかったので、彼らとの対応を誤りました。しかしアメリカは最近になってその誤りに気づき、支那に厳しく対するようになりました。ところが、日本はいまだにはっきりと気づいていません。アメリカは日本よりは目覚めるのが早かったです。

それはFreedomの考え方が、正しい心を持つ者と持たない者の二種類の人間がいるという二分法になっているからです。Freedomの考え方になじんでいるアメリカ人には、相手が正しい心を持っているか否かを見極めようという発想があります。一方、誠には人間を正しい心を持っている者とそうでない者の二つに分ける発想がないので、日本人は相手がどちらかを見極めようとする習慣を持たないからです。「誠は必ず相手に通じる」と思い込んでいます。

日本人は明治になって初めて、Freedomも誠も持たない支那人や朝鮮人と本格的に接触しました。そして支那人や朝鮮人を仲間扱いした「大アジア主義」に染まってしまい、その後の日本の進路を誤りました。

しかし、明治初年にすでに、支那人や朝鮮人を仲間扱いしてはならない、という正しい考えを主張した人物がいました。それが福沢諭吉です。

福沢諭吉(1835年~1901年)は、慶応義塾大学を作り、『学問ノススメ』を書いた人として有名で、一万円札に肖像が描かれています。彼は大名の家来の子供でしたが、世界の覇権をイギリスが握っていることを知って英語を学びました。英語ができたため、幕府がアメリカや欧州に派遣した使節団の通訳になり、最後には幕府の旗本(上級幕臣)になりました。明治維新後は、慶應義塾で若者の教育に当たるとともに、西欧文明の普及に努めました。

若いころの福沢諭吉は大アジア主義に染まり、明治維新と同じことを朝鮮でも行おうとした朝鮮人の若者たちを支援しました。ところが朝鮮政府はこれらの若者のリーダーだった金玉均を暗殺し、その死体にさらに「凌遅刑」という残虐な刑を執行しました。

この事件をきっかけに、福沢諭吉は、朝鮮人と日本人はもともとの発想が違うために仲間にはなれない、ということを悟りました。そして明治18年に『脱亜論』を書いて、支那や朝鮮との決別を宣言しました。

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