自由主義経済では、自分の商売に関係することだけを知っていれば、何とかなる

新古典派の経済学は、人間は同じ情報を得たら同じように判断するはずだから(合理的期待説)、莫大な情報をコンピュータにかけて解析したら、人間の経済的行動を予測できるはずだ、と考えます。

一方のハイエクは、人間は外界を正確に認識することができないと考えています。新古典派は、人間には合理的な行動を期待できると考えていますが、ハイエクは、「人間は無知で、非合理だ」と考えるのです。従って、コンピュータによる解析をあまり信用しません。

新古典派もハイエクも自由主義経済を主張していますが、政府による公共投資についての態度が異なります。新古典派は、人間は合理的に行動するという前提から、政府による公共投資も過度で市場活動の自由を大きく阻害しない程度のものでれば、容認します。

ところがハイエクは、人間は外界に対して無知で結果を予測できない。だから公共投資によって市場をかき乱すのはとにかくやめろ、という態度です。

アダム・スミスなどの古典派経済学者は、政府が市場に介入しなければ、「神の見えざる手」が市場を良い方向にちゃんと導いてくれる、と考えていました。しかしハイエクはそこまで楽天的ではなく、神の見えざる手を信じていません。そもそも彼は無神論者なのです。

市場の参加者は、別に市場全体に関する完全な情報を持っているわけではありませんが、それでも市場は何とか動いています。市場関係者は、自分の商売に関することだけを知っていれば良く、社会主義政府の当局のように市場全般のことを知らなくてはならないわけではありません。

例えば、世界のどこかで銅の需要が増えれば価格が上がります。銅の利用者は銅を節約して他の金属に変えるでしょうが、そのとき彼はどういう原因で銅の価格が上がったのかといった事情を知る必要はありません。

利用者の個人的行動が、市場の価格という一般的知識に翻訳されて市場に伝わるだけで、あたかも計画当局が「不足している銅を節約せよ」と命令のと同様に、各企業は自発的に行動するのです。そしてその方が、社会主義的計画経済より効率が良いのです。

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