日本の大乗仏教は、阿弥陀様に対する信仰を重視します。アミダ様は、人間が死ぬときに極楽からお迎えに来るのです。平安時代に藤原頼通(道長の息子)が、京都南郊の宇治にあった別荘を寺院に改築しました。これが平等院で、その姿が10円玉に浮き彫りになっています。
その本堂である鳳凰堂の壁には、アミダ様が大勢の家来を引き連れて臨終の人間を迎えにくる「来迎図」が書かれ、柱には多くのアミダ像が掛けられています。頼通は臨終の時に、部屋中のアミダ像の指にカラフルな糸を持たせ、もう片方の先を握りしめて、「ナムアミダブツ」「ナンマイダ」と言い続けて亡くなりました。
アミダ様に対する信仰を特に強調したのが鎌倉時代に興った浄土宗と浄土真宗ですが、それ以前の平安時代からアミダ様に対する信仰は盛んでした。どんなに未熟な者でも、一生のうちに十回も「ナムアミダブツ」と唱えれば極楽浄土に行ける、という教えです。
普通の人は、極楽浄土に行ければそれが終点で仏教の目的は達せられたと誤解しています。しかし本当は、「普通の人は生きるのに忙しく修業が出来ないので、極楽浄土に行ってから本格的に修業をしよう」、ということを浄土宗と浄土真宗は説いているのです。
アミダ信仰によって、「特に修業をしなくても、極楽浄土に行くことができ、苦から逃れて、幸せに暮らせる」という誤解が広まりました。その結果、「苦を逃れるためには、自分が大事に思っている全てのものを捨てて出家し、社会を離脱しなければならない」「神や仏を頼らずに自力でものに対する執着を消し去らなければならない」という仏教の本質的な教えを、日本人は見失ってしまいました。
アミダ信仰はまた、極端な平等を説いています。「仏説無量寿経」「阿弥陀経」などの経典は、「人間の肌の色は、本当は金色なのだ」「全ての人は、本当はものすごい能力を備えている」としています。人間はみな仏様なので、みんな全く同じ能力と性格を持っているから、個性の違いなどまったく存在しない、と考えているのです。
以上が、仏教とはなにか、という問いに対する私なりの答えです。次回から、このような仏教が現在の日本にどのような影響を与えているか、を書いていきます。