支那では大乗仏教が急激に衰退した

インド本国は小乗仏教の勢力が強かったので、新興の大乗仏教は仏教の普及していない中央アジアやチベットに布教を行いました。チベットから支那に、そこからさらに朝鮮や日本へ大乗仏教が広がっていきました。

ローマ帝国がゲルマン人の大移動によって滅びたので、ローマに商品を輸出していたインドの商人も没落し、商人からの寄進がなくなったインドの小乗仏教も没落しました。そして最終的にインドに侵入したイスラム教徒によって僧侶が虐殺され、インドで仏教は消滅しました。

大乗仏教が支那に伝わった西暦2~3世紀は支那の内乱期で、人口が七分の一以下に減ってしまった大変な時代でした。不安におびえる支那人たちは、心の不安を取り除くために宗教に助けを求めました。

儒教は社会の秩序を説くだけで、個人的な悩みや不安を取り除くような教えではありません。そこで新しく入ってきた大乗仏教に、多くの支那人が飛びついたわけです。自分の肉親や財産などがどんどん無くなっていく状況では、「苦から逃れる」方法を説く大乗仏教は、まさにうってつけの宗教でした。

西暦2~3世紀の内乱が終わったと思ったら、今度は支那に北方から異民族が侵入して王朝を建てました。儒教は支那人以外の周辺民族をみなバカにするので、異民族王朝の皇帝たちも儒教より大乗仏教を大事にしました。

西暦4世紀から10世紀の初めに唐が滅亡するまで、支那は異民族に支配されていました。隋や唐といった有名な大帝国の帝室も、北方騎馬民族の一派である鮮卑族の出身です。だからこの時期が支那における大乗仏教の最盛期です。この時期に日本は遣唐使を派遣し、大乗仏教を導入しました。

支那人や朝鮮人は心の内面よりも外観を重視する民族なので、心の宗教である大乗仏教は本当のところ彼らには合いません。従って唐王朝が崩壊して支那人の王朝(宋)ができ、儒教が復活すると、仏教の勢力は急激に衰えました。結局、東アジアで大乗仏教が今でも大きな影響力を維持しているのは、日本とチベット・モンゴルだけです。