大乗仏教にもいくつかの教派があるのですが、日本に伝わったのは「人間は、本当は仏様なのだ」と考える教派です(これを「如来蔵思想」と言います)。凡人も、本当は仏様なのです。ただその心の表面にゴミが付いていて、ものに対する執着を捨てることができないでいる仏様なのです。
おしゃか様は、存在を確認することができない神や仏のことなど考えるな、と教えたのですが、日本の大乗仏教はこれと全く違う考え方をしています。
日本の大乗仏教が「人間は、本当は仏様なのだ」と考えていることが分かると、様々なことが納得できます。まず、日本では、死体を「仏様」と言います。平安時代、比叡山の延暦寺に僧兵がたくさんいて、修業もせずに合戦ばかりやっていました。彼らの言い分は、「自分たちも本当は仏様なのだから、これ以上修業する必要はない」というものでした。
明治以後、僧侶が修業の邪魔になる結婚をするようになったのも、「本当は仏様なのだから、これ以上修業する必要はない」という気持ちがどこかにあるからです。
さらに詳しく説明すると、日本の大乗仏教は、「全てのものは仏様という大きな存在の一部である。人間だけでなく動植物も自然物もすべて仏様である。」と考えています。
何を言っているのか理解できないと思いますが、「自分と他人や動植物・自然は、別物ではなく、分けることはできない」ということです。だから日本の文化は、自然との調和や一体観を重視します。
川端康成は、ノーベル文学賞を受賞した時に『美しい日本の私』という記念講演を行いました。その中で康成は、明恵(みょうえ)上人を典型的な日本人として挙げています。明恵上人は、江戸時代までは誰も知らない人がいないぐらいに有名だった僧侶です。彼には面白いエピソードがたくさんあるので、後に詳しく説明したいと思っています。
彼は、次のような歌を詠んでいます。「山の端に 我も入りなむ 月も入れ 夜な夜なごとに また友とせむ」。彼と月は共に仏様であり、一心同体なのです。この歌からも、日本人は「全てのものは仏様であり、仲間なのだ」と思っていることが分かります。