キリスト教社会と日本では、自由の考え方が違います。
キリスト教の自由というのは、「人間がイエス・キリストを信じれば、その人間の心が正しくなり、喜んで他人を助けるようになる。イエス・キリストと同じ正しい心で他人を助けようとする場合には、世俗の法律やルールを破っても構わない」というものです。
自由であるためには、正しい心を持っていなければなりません。心が正しくない者に対しては、「強制をしてでも、正しい心を教えてやらなければならない。強制されるのはつらいだろうが、結局は彼のためなのだ」というように考えます。
キリスト教ではこのような考え方を積極的自由と呼んでいます。アメリカ人が、キリスト教を知らない黒人を奴隷にしたのも、異教徒の日系人を収容所にぶちこんだのも、この積極的自由の考え方からです。
ソ連の共産主義政府は、政府に逆らう連中を心の正しくない者とみなし、積極的自由の考え方から収容所にぶち込んだのです。
キリスト教の自由には、言論の自由や職業選択の自由など日本人が考えている自由(消極的自由)以外に積極的自由があります。ソ連の憲法も、二つの自由があることを前提にしたうえで、国民に自由を認めています。
ソ連政府は、はやく共産主義社会を完成させようとして、国民に「正しい心」を植え付けようと一所懸命でした。だから勢い積極的自由の考え方が強くなったのです。
私は、何かあるとすぐに人を収容所にぶち込むソ連のやり方が嫌いですが、このようなやり方も理屈の上では理解できます。ところが普通の日本人は、自由とは消極的自由のことだと思っていて、積極的自由という考え方がキリスト教社会にはあることに気がつきません。だから、「ソ連には自由が無い」と、単純に考えてしまうわけです。