経済界は、大アジア主義に汚染されている
アメリカが支那に対して非常に厳しい態度に出ているのに対し、日本は煮え切らない態度をとっています。 経済界から話をすると、経団連などは今...
アメリカが支那に対して非常に厳しい態度に出ているのに対し、日本は煮え切らない態度をとっています。 経済界から話をすると、経団連などは今...
共に連携して欧米に対抗しようという大アジア主義が根底にあるために、日本人は一方で支那の横暴に対して激怒しながら、もう一方で仲良くしようという何とも煮え切らない態度をとったのです。こういう甘い態度で支那からなめられ、終には大東亜戦争に繋がっていったのです。
19世紀末から20世紀前半の支那にはまともな国家がなく、自国民や居留する外国人を守ろうとせず、むしろ積極的に略奪をしようとしていました。そこで欧米列強や日本はしかたなく支那に租界を設け、自国の軍隊と行政官を駐在させていました。
侵略というのは、一つの国家が別の国家に仕掛ける行為です。では支那に国家などというものがあったのでしょうか。そういうことも考えなければなりませんが、学者たちがそういう検討をした形跡がありません。
勝海舟・吉田松陰・島津斉彬という優秀な人物が誤って大アジア主義を唱えるような状況だったので、その他の日本人もほとんどが大アジア主義者になり、そのままの状態で明治になりました。明治になって政府が支那や朝鮮と実際に交渉するようになりその実態を知るにつれて、鋭い日本人は「大アジア主義」をおかしいと思うようになりました。
江戸時代の日本人は、支那は儒教の教え通りの「聖人の国」であり、儒教は日本の神道のようなものだ、と誤解しました。さらに、支那では未だに仏教が盛んに信仰されている、とも勘違いをしました。要するに、「支那人は、日本人とほとんど同じような考え方をしている」と、とんでもない思い違いをしたのです。
江戸時代、荻生徂徠(1666~1728年)という儒教の有名な学者がいました。彼は支那に留学したかったのですが、鎖国制度のために果たせませんで...
江戸時代に至っては、幕府は日本人の海外渡航を全面的に禁止したので、情報は本に書かれていることに限られていました。儒教の本には、「支那は極めて危険な国だ」などとは書かれていません。それとは反対に、「道徳を守る聖人でなければ、皇帝になる資格はない」などと書かれています。これを読んだ江戸時代の日本人は、「支那は聖人の国だ」と思ってしまったのです。
支那の皇帝陛下が日本の天皇陛下に何か用事があれば、手紙を書かなければなりません。その時に宛名を「日本国 天皇」と書くことは、支那の皇帝制度に反するのでできません。「日本国王」と書けば、日本はその手紙を受け取りません。
白村江の戦いは、日本の存亡を賭けた日露戦争よりはるかに大規模な戦いで、しかも負けてしまったわけです。