自由競争は、優れた者にだけ適用される
ルターやミルが主張した本来のFreedomは、劣ったものを育てて優れたものにしなければならない、という考え方でした。自由競争は、優れたものにだけ適用し、劣ったものは保護し教育すべきだと考えたのです。
ルターやミルが主張した本来のFreedomは、劣ったものを育てて優れたものにしなければならない、という考え方でした。自由競争は、優れたものにだけ適用し、劣ったものは保護し教育すべきだと考えたのです。
官営事業は、税金を使った独占事業であり、私たちがいま理解している自由競争とは正反対です。しかし、この政策が自由主義に反するとすれば、色々と辻褄があいません。
バーリンは欧米のグローバリストの一人であり、日本で言えば「進歩的文化人」にあたるでしょう。彼が活躍していた20世紀後半は、グローバリズムの時代でした。だから彼の自由論は、今の学界の定説になっています。
ルターの「律法からの自由」とミルのFreedomは同じ考え方です。ただルターが「心正しいキリスト教徒にのみ認める」とした条件を、ミルは「文明...
ルターのいう「律法からの自由」は、「イエスを信じているために神によって心を清く正しくされたキリスト教徒」が前提条件になっています。即ち、キリスト教徒でない者には「律法からの自由」を認めません。その考え方をミルは、「野蛮人や子供にはFreedomを認めない」とはっきりさせたのです。
キリスト教が主張する「律法からの自由」というのは、律法を守ることが前提にあります。しかし、「イエスを信じて心が正しくなっているキリスト教徒に限っては、律法を破っても良いときがある」という考え方なのです。
ルターは、「キリスト教徒は信仰だけで十分であり、いかなる行いも必要がない。だとすれば、彼は律法から解放されているから自由だ。これがキリスト教的な自由なのである」と書いています。
「善行は神の力に頼っていないので、信仰のように多くを成し遂げられない。人間はイエス・キリストを信じるだけで十分であり、善行は不要だ」、ということをルターは書いています。
プロテスタントは、イエスを信じればそれでよいのだ、と考えます。信じる者は救われるのです。
、「努力して原罪を消し去る」というカトリックの教義に、ルターは疑問を感じました。