天皇陛下も、ご自分の気持ちを述べられたら良い
今の日本では、天皇陛下は政治に口を出されてはならない、と考えられています。私もこの考え方にあながち反対ではありません。しかし天皇陛下も日本を想う気持ちをお持ちのはずで、そこまで遠慮なさることはありません。
今の日本では、天皇陛下は政治に口を出されてはならない、と考えられています。私もこの考え方にあながち反対ではありません。しかし天皇陛下も日本を想う気持ちをお持ちのはずで、そこまで遠慮なさることはありません。
キリスト教と神道が分かっていないから、学者はFreedom(自由)とEquality(平等)の重要性を実感できないのだと思います。その重要性が実感できないから、民主主義とか主権在民などと、「誰が政治を行うのか」という問題に関心が集中してしまうのです。
Freedomと同じ考えが日本にもありました。それが神道の信仰から生まれた「誠」です。Freedomは誠と訳すべきだったのですが、自由という仏教用語を訳語に使うというミスをしたのです。
アメリカ人に「平等・身の安全・自由の権利と・所有権の保障」をしたのは、創造主(キリスト教の神)です。つまりアメリカ合衆国憲法は、神定憲法です。
多くの日本人は、自由と平等という考え方が近代国家の中心にあるということを実感できず、主権者が誰かという手段に目が行ってしまっています。
日露戦争が起きた時(明治37年)、列強は「憲法を持った近代国家(日本)と野蛮な専制国家(ロシア)との戦いである」と考えました。当時のアメリカのルーズベルト大統領は、近代的な憲法を持っているから日本は戦争に勝つだろう、と勝敗の行方を予想しました。
ドイツ人は、ドイツ皇帝陛下をただの人間だと思っていました。もちろん、偉い方ではありましたが、医者が患者を治す使命を帯び、運転手が蒸気機関車を...
主権者は君主あるいは国民で、どちらであるにせよ主権者は人間だと考えるのが、世の常識です。ところが美濃部達吉博士は、国家という抽象的なものを主権者だと主張しました。なんとかして天皇陛下が主権者であることを否定したかったわけです。
人を殺してはいけない、という法はみんなが集まって議決した法ではなく、昔からの伝統によってそのように決まっていることなのです。それ以外に説明しようがありません。
アリストテレスは、国民のみんなが納得する法に基づいて政治を行うのであれば、一人で政治をやろうがみんなでやろうが大した問題ではない、と考えていました。そしてみんなで政治を行う場合でも、衆愚に陥る場合を「民主制」としています。