多数決でも決められないことがある

アリストテレスは『政治学』という本の中で、民主主義(多数決)で政治を行っても、法がしっかりしていなかったら国民は不幸になる、と書いています。

この問題を、例を挙げて考えてみましょう。高校のクラス会で、「明日の朝、始業の10分前にクラスのみんなが教室に集まって、掃除をしよう。遅れてきた生徒は、みんなの前で裸にしよう」という提案があり、生徒の多数決で可決されたとします。

翌朝、一人の女子高生が遅刻したために、クラスのみんなは彼女の服を無理やり脱がそうとしました。担任の先生が慌てて止めようとしましたが、生徒たちに「僕たちは民主主義の手続きを踏んでいるから、この決定は正しい。」と言われてしまいました。あなたが担任の先生だったら、生徒たちに対して何と言って反論しますか。

私なら、「多数決でも決められないことがある」と生徒たちに教えます。人を殺してはいけない、という法はみんなが集まって議決した法ではなく、昔からの伝統によってそのように決まっていることなのです。それ以外に説明しようがありません。

女子高生の服を無理やり脱がすような行為を、どう考えたら良いのでしょう? 刑法の「強制わいせつ」に相当するかもしれませんが、その法律を知らなかったら犯罪になるという確信も持てません。

普通の人は、「非常識」「神や仏が許さない」と感じるでしょう。そういう感情を理論的に集約したものが「自由」や「誠」ということになると思います。アリストテレスが言う「正しい法」とは、自由や誠などのことを指しています。自由や誠に反することは多数決でも無効だ、というのは法律学も認めているの大原則です。

日本と南朝鮮は、「従軍慰安婦に関してこれ以上問題にしない」という約束をしました。ところが南朝鮮の大統領は、この約束を反故にしようとしています。その理由として「多くの国民が受け入れられないから」と言っています。

つまり、南朝鮮の大統領は、多数決(多くの国民が受け入れない)によって、人類共通の「約束を破ってはならない」というルールを破ることにしたわけです。自由や誠という考え方を持てない民族もたくさんあるのです。そういう民族と我々を同一視してはなりません。

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