インド東部のガンジス川流域は、アーリア人が少なく先住民が多い地域でした。従ってアーリア人の人種差別政策に反抗的で、アーリア人の宗教であるバラモン教の教えに懐疑的な者が多くいました。おしゃか様もチベット系だったらしく、バラモン教の伝統にかなり懐疑的でした。
おしゃか様が修行をしていた紀元前4世紀頃(実はおしゃか様がいつ生まれたのか、はっきりしていません。学者によって百年以上の開きがあります)、ガンジス川流域では、バラモン教に懐疑的な学者が大勢出てきて、百家争鳴の状態でした。アージーヴィカ教やジャイナ教などバラモンに異議を唱える宗教も生まれていました。
ガンジス川流域でバラモン教の教えに則った修業をして失敗したおしゃか様は、ただでさえバラモン教に懐疑的だったので、完全にバラモン教の教義を信用しなくなりました。ただしバラモン教とは別の宗教を作ろうと考えたわけではなく、バラモン教を自分の考えに従って大幅に変更しようとしたのです。
従っておしゃか様は、生涯にわたって自分をバラモン僧だと思っていました。しかし正規のバラモン僧から見れば、彼はバラモン僧ではなく、少なくとも異端でした。
おしゃか様は、バラモン教の教義を何点か修正しました。一つは、バラモン教はブラフマンという神が天に実在すると考えたのですが、おしゃか様はそれを否定しました。別にブラフマンなど存在しないと主張したのではなく、「そんなもの、あろうがなかろうがどっちでもいいじゃないか」と考えたのです。
もう一つのバラモン教の修正点は、僧侶になる資格を変えたことです。バラモン教では、両親とも7代にわたって白人のアーリア系でないと僧侶になれませんでした。しかしおしゃか様は、修行と人種は関係なく、どのような出自であっても修行次第で苦から逃れることができる、と主張したのです。
おしゃか様は、人種差別に非常に敏感でした。当時のガンジス川流域はアンチ・バラモンで、伝統に対する反抗的な気分が横溢していたので、それに影響されたのでしょう。また自分自身がアーリア人ではないことが要因だったのかもしれません。
おしゃか様の考えを受け継いで、仏教は「平等」「人種差別反対」を強く主張しています。