人間はみな同じだ」という考え方から、日本人は国籍や民族を無視するようになった

憲法で規定している「平等」とは、大乗仏教の教義である「全ての人間は仏様であり、みな同じで違いなど存在しない」という考え方だ、という誤解が日本中に広まってしまいました。明治になって、西欧で生まれたEqualityという言葉に、仏教用語である「平等」という言葉を訳語としてあてはめたために、このようなことになったのです。

西欧のEqualityはキリスト教の信仰から生まれたので、大乗仏教の「平等」の発想とは基本的なところで違います。大乗仏教は「人間はみな同じで違いはない」という前提に立っていますが、キリスト教は、「個々の人間はそれぞれに個性的であり、違う」と考えています。神が人間を一人一人作ったからです。

キリスト教の神は、それぞれの人間に個別の使命を与え、それを達成するのに必要な個別の能力と性格を与えました。人間は神によって不平等に作られているのです。西欧キリスト教社会では、それぞれの人間が違う使命と能力を備えていることを、神がやった事だから当然だと考えています。

近代になって、神がそれぞれの人間に与えた使命とは関係のないプライベートな部分に関しては、全ての人間を同じように扱うべきだ、というように考えました。これがEqualityの考え方です。Equalityは適用される範囲が狭いのです。

このように「人間はみな同じだ」「人類みな兄弟」という考え方に多くの日本人が染まったために、日本人が国境・国籍の違い・民族の伝統の違いなどを無視し始めました。

国境・国籍・民族の違いを無視する考え方を、一般には「グローバル化」と英語で呼んでいますが、欧米人の国籍や民族に関する発想は日本人と違うので、日本人の考える「人類みな兄弟」と欧米のグローバル化を混同すべきではありません。

「人間はみな同じだ」「人類みな兄弟」という発想は、近代国家の大原則である「社会契約説」に反します。世界中のまともな国の憲法は、社会契約説に基づいています。日本国憲法も社会契約説です(もっとも私は日本国憲法など成立していないと考えていますが)。

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