20世紀になるまで満州に支那人はいなかった

中華民国は論理のすり替えを行い、支那にあった清王朝の領土だけでなく、満州やモンゴル・チベットなど支那とは別の地域も中華民国の領土であると主張しました。しかし中華民国は軍閥の寄せ集めで国家としての実態がなかったので、支那の内部も満足に統治できず、それ以外の地域には手が出せませんでした。

1949年に毛沢東が率いる共産党は、国民党を台湾に追い払って支那を統一し、中華人民共和国を建国しました。中華人民共和国は、領土に関して中華民国の見解を継承しています。即ち論理のすり替えを行って、支那にあった清王朝の領土だけでなく、満州やモンゴル・チベットなど支那とは別の地域も自国の領土であると主張しています。

そしてその理屈に基づいて、各地を侵略しました。各地の侵略のされ方はそれぞれ事情が異なるのですが、まずは満州について説明します。

満州はもともと満州人の本拠地であり、支那人の入植は長い間禁じられていました。ところが1900年になって清朝の皇帝兼満州王は方針転換をし、支那人の農民が満州に移住することを奨励しました。

当時、清は欧米や日本の8カ国連合と戦争をして敗け(義和団の変)、国家予算のおよそ4年分に相当する賠償金を負わされました。そこで満州に農民を入植させて年貢を徴収し、賠償金の支払いに充てようとしたのです。

それから満州に支那人が雪崩のように押し寄せ、満州人より数が多くなりました。1911年に辛亥革命が起きると、支那人は満州人を大虐殺し、満州人という民族が消滅しました。まさに「民族浄化」という大犯罪です。

この時に何人の満州人が殺されたのかよく分かっていません。400年前に支那に攻め込んだ時の満州人の総人口は100万人未満だったらしいので、その後増えたとは言っても満州人の人口はさして多くなかったしょう。支那人のふりをして生き延びた満州人もいました。

1930年代に日本の協力で出来た満州国は治安が良く豊かな国だったので、さらに支那人の移民が殺到しました。このような経緯で今の満州には約1億人の支那人が住むようになり、大昔からそこに住んでいるような顔をしています。

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