アジア大陸の中央部(チベットの北)にタリム盆地があります。ここはシルクロードの通り道で、乾燥した草原の中にオアシスが点在しています。北京からは、直線距離で約3000キロ離れています。
タリム盆地には古代からペルシャ系のソグド人が住んでいましたが、9世紀にモンゴル高原にいたトルコ系のウイグル人が唐に撃破されてこの地に逃げ込んできました。現在住んでいるウイグル族は、言葉はトルコ系ですがソグド人の血が混じっています。
支那から遠いので、18世紀になるまで支那の領土に組み込まれたことはありませんでした。ただ漢の全盛期と唐の全盛期のわずかな間だけ、支那の王朝に従属したことがあっただけです。18世紀半ばに満州人が作った同君連合は絶頂期を迎え、その皇帝がタリム盆地に攻め込んで平定し、そこを支配しました。満州人皇帝を共に戴く同君連合に、一つの王国が追加されたわけです。
1864年にヤークーブ・ベクが蜂起し清を駆逐して、イスラム国家を建設しました。ウイグル人は同君連合から離脱したわけです。この国家をイギリスやロシアは独立国として承認しています。しかし18年後に清軍に再征服されてしまいました。
1911年に、辛亥革命が起きて清王朝が滅亡し中華民国ができました。中華民国は論理のすり替えをしてタリム盆地も中華民国の領土だと主張し、軍隊を派遣して征服してしまい、ウイグル人の土地を奪って支那人の移民に分け与え始めました。
そこでウイグル人たちは1932年に暴動を起こして支那人を放逐し、東トルキスタン・イスラム共和国を建国しました。しかし1949年に建国した中華人民共和国も、中華民国の理屈を継承してタリム盆地は自国の領土だと主張しました。
そして軍隊(人民解放軍)を送ってウイグル人の指導者を皆殺しにし、この地が中華人民共和国の「新疆ウイグル自治区」であると宣言しました。
「人民解放軍」が攻め込んできた時、この地に住んでいた支那人は人口の5%に過ぎなかったのですが、北京政府が支那人の移民をどんどん送り込んできて、今では総人口のおよそ60%が支那人です。支那人がウイグル人の領土を乗っ取ったわけです。