平等の考え方もキリスト教と神道は似ている、と伝える

キリスト教と神道が似ている点の五つ目として、どちらの宗教も平等を限定的に考える、ということが言えます。

キリスト教は、神がそれぞれの人間を作り、それぞれの人間に異なる使命と、それを達成するために必要な異なる能力を与えたと考えます。人間はもともと不平等に作られているのです。神が定めた不平等なので、これに対して人間が文句をいうわけにいきません。

だたし使命とは関係のない事柄に関しては平等でなければならない、というのがキリスト教の信仰から生まれた平等の考え方です。西欧諸国では平等が重視されていますが、その多くが君主国であり、特権を持った王様がいます。

西欧の王様は、戴冠式でローマ教皇など高位の聖職者から王冠をかぶせられています。高位の聖職者は神様の代理人という資格で戴冠式に出席しているわけですから、王様は神様から王様に任命された、ということになるのです。王様としての特権は神様が定めた使命を達成するために必要なものですから、平等の対象から外れるのです。

日本の天皇陛下のご先祖様であるニニギのミコトは、神道の神様である天照大神から「日本を治めよ」と任命され、さらにその子孫が代々日本を統治するように命令されました。天皇陛下はその地位を神様から任命されたのです。従って天皇陛下の地位に伴う特権は、平等の範囲外です。

日本には昔から、それぞれの役目は神から授かったものだが、それを外れたところでは平等だ、という考え方がありました。幕末になってこの考え方が「一君万民」思想になりました。天皇陛下以外の日本人は政治的にはみな平等だ、という考え方です。

この考え方が大日本帝国憲法や日本国憲法の考え方に流れています。このようにキリスト教の信仰から生まれたEquality(平等)と同じ考え方が、日本の伝統の中にもありました。このことを、欧米諸国に教えなければなりません。

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