大院君と閔妃は、互いに相手を憎悪し、殺し合いをした

明治初期の日本の国力は、まだ大したことはありません。それなのに清やロシアと対等の交渉をしています。それは、当時の日本人が欧米の考え方を先入観なしに学んで正確に理解していたからです。そして日本の主張を貫くため、変な忖度などせず迫力を持って相手に迫っていったからです。「日露戦争までの日本はすごかったなあ」とつくづく思います。

明治初期日本の朝鮮側のカウンターパートが、みなさんも名前ぐらいは知っている大院君(1820年~1898年)と閔妃(ビンピ 1851年~1895年)です。

朝鮮国王の哲宗が、実子がないままに亡くなったので、王族の中から大院君の次男が選ばれて国王になりました(高宗)。そして高宗の妻が閔妃です。つまり大院君と閔妃は、舅と嫁の関係なのです。この二人は互いに相手を憎悪し、ものすごい暗闘の後に舅が嫁を殺すという、韓流ドラマそのままのことが起きました。

閔妃を息子の嫁に選んだのは大院君でした。閔妃も最初は下手に出て舅によく仕えていました。ところが夫の高宗が身分の低い宮女に産ませた子供を、大院君が高宗の跡継ぎにしようとしたことから、閔妃は舅を憎悪するようになりました。大院君は、もともと身分が高かった閔妃の一族が王妃の権威をかさに着て専横に振る舞う害を避けようとしたのです。

大院君

閔妃(閔妃ではなく、妓生(芸者)の写真だという説もあります)

閔妃の方が大院君より政治的な才能があったので、大院君を宮廷から追放することに成功しました。彼女は日本の軍人を顧問にして新式の軍隊を作ろうとしました。どうやら彼女は強い軍隊を支配下に置いて大院君に勝ちたかったようです。

新しい軍隊には高い給与をきちんと払ったのに、旧軍の給与は13ヶ月間も払わなかったことから、旧軍の兵士が反乱を起こし、閔妃一族の政府高官や日本人を襲撃しました。これが壬午事変です(1882年)。

日本の公使以下28人が公使館から脱出したのですが、途中でも襲撃されました。彼らは小舟で漂流している所をイギリスの船に救助されて長崎に逃げ帰りました。この間、朝鮮側は逃げ回る日本人を助けようとしませんでした。ソウルにおける日本の勢力が壊滅したので、閔妃は清の袁世凱に庇護を求めました。

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