清は、本気になって朝鮮の属国化を狙った

壬午事変(1882年)という反乱事件の結果、権力の座に返り咲いたのが大院君なので、彼がこの反乱を陰で操ったのははっきりしています。反乱軍が日本人を殺したのは、そうすれば閔妃が困ると思ったからです。

では閔妃がなぜ日本と組んだのかと言えば、大院君が支那と組んでいたので、その対抗勢力は日本しかなかったからです。要するに朝鮮人は、状況が変われば、敵味方を簡単に変えるのです。

朝鮮は、壬午事変によって受けた日本の被害に謝罪と賠償をしました。しかし、閔妃と大院君という私益でしか動かない二人が死闘を行っていて、何をするかわかない朝鮮など信用できません。国王の高宗は無能で、何もできませんでした。そこで日本は清と話しをつけました。

日本は、朝鮮を清から切り離して緩衝地帯にし、清が朝鮮国内に日本攻撃の軍事拠点を作れないようにすれば目的は達せられるので、清軍が朝鮮にいなければよいわけです。そこで日清両国とも朝鮮から撤兵し、出兵するときはお互いに相手に通知することにしました(天津条約 1885年)

同じころ清はフランスと戦争をして破れ、ベトナムの宋主権を失いました(清仏戦争 1884年~1885年)。領土の周辺地域がどんどん欧米列強に蚕食されたので、清は朝鮮だけは自分のものとして確保しようと考え、朝鮮に対して積極的になってきました。

当時の清は中央政府の力が衰え、各地で軍閥が割拠しているという末期的な状態でしたが、北洋大臣として清の北部を抑えていたのが清朝最大の実力者だった李鴻章(1823年~1901年)でした。そして彼の実質的な私兵が北洋軍閥でした。彼は朝鮮を支配しようとして、自分の大番頭である袁世凱(1859年~1916年)を朝鮮に派遣しました。

袁世凱は、後に中華民国の総統になるほど切れる人物です。李鴻章と袁世凱という有能な指導者に率いられた清最大の北洋軍閥が、本気になって朝鮮を属国化しようとしました。大院君は閔妃との争いに敗れて、清につれて行かれ幽閉されていましたが、袁世凱は彼を朝鮮に戻し、彼を使って朝鮮の支配階級を手なずけました。

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