日本は朝鮮を自立させようとした

明治初期の、日本に対する朝鮮の無礼な態度が、その後の日本の針路に大きな影響を与えました。維新政府の指導者の中でも単純な者たちは、沸騰して「朝鮮を討つべし」と騒ぎました。そして自重を主張する政府に反対して、当時の政府首脳である参議の半分と陸軍の主力だった薩摩系の軍人のほとんどが辞職してしまったのです。

しかしもっと先を考える大久保利通や伊藤博文などの指導者は、二つの理由から征韓論に反対しました。ひとつは、日本は子供の喧嘩のような下らないことをする余裕はない、ということです。西欧の強大さを知っていた彼らは、朝鮮と戦争などすれば、西欧列強に付け込まれて日本自体が植民地になってしまうことを恐れました。

さらに朝鮮半島の地政学的リスクも考えて、短期的視野に立つ征韓論に反対しました。朝鮮人に当事者能力がなく、自分の運命を自分で決められないことははっきりしました。しかし朝鮮半島南端の釜山から対馬までは50キロ、九州本土までは150キロでしかなく、船に乗れば8時間で日本に攻め込むことが可能なのです。

清あるいはロシアといった強国が朝鮮を支配し、その南端に軍事基地を作ったら日本の安全保障上の脅威になります。そこで日本は朝鮮を援助して自立させ、清やロシアの影響力を朝鮮から取り除こうとしました。朝鮮自体を支配しようとは考えておらず、独立した朝鮮と日本が軍事同盟を結べたら良い、ということを考えていた程度でした。

日本の対朝鮮政策は一貫して朝鮮を自立させることで、この政策に反対して朝鮮を支配下に置こうとしたのが清やロシアでした。そこで、日清戦争と日露戦争が起きたのです。

明治初期に欧米列強と日本は、李氏朝鮮の開国を要求していましたが、朝鮮はそれを拒否して外国の軍艦を砲撃していました。
1866年(慶応2年) フランスの軍艦と江華島で交戦
1871年(明治4年) アメリカの軍艦と江華島で交戦
1875年(明治8年) 日本の軍艦と江華島で交戦(江華島事件)

江華島事件をきっかけに日本と朝鮮は交渉し、翌年の1876年(明治9年)に日朝修好条規(江華島条約)が締結されました。交渉に当たって日本の外交官は朝鮮とは実質的な交渉をせず、清の外交官と交渉しています。朝鮮は清の属国なので、そもそも外交権がなかったからです。

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