国賓の扱いで、その民族の仲間に関する考え方が分かる

人間は、仲間を作って互いに助け合い、生き延びようとします。仲間を作って結束するということではすべての民族は共通していますが、その仲間の作り方や範囲は民族ごとに違います。仲間に関する考え方の違いは、その民族が国賓を遇するのを観察すると、よく分かります。

2015年9月に支那の習近平国家主席が、アメリカを訪問してオバマ大統領と会談しました。彼は9月22日にアメリカに到着したのですが、同じ日にカトリックのフランシスコ教皇も国賓としてアメリカに到着しました。

国賓の訪問というのは重要な外交儀式ですから、普通は二人の国賓のスケジュールをダブらせることはありません。これは明らかに、オバマ大統領の習近平主席に対する嫌がらせです。支那政府もこれが分かっていたので、何とかしてローマ教皇の訪問日程を変えようとしましたが、できませんでした。

ワシントンに到着したローマ教皇を、アメリカの正副大統領がそろって出迎えました。一方、シアトルに到着した習近平を出迎えたのはシアトル市長で、国務長官さえ出迎えなかったのです。オバマ大統領は、翌日の23日にローマ教皇と会談したのですが、習近平の方はさんざん待たせて、彼と会談したのは25日でした。アメリカのマスコミはローマ教皇ばかりを報道して、習近平をほとんど無視しました。

キリスト教徒は、異教徒を仲間とは考えません。オバマ大統領は、キリスト教の指導者と異教徒の指導者をアメリカ国民に並べて見せ、「アメリカは支那を仲間とは考えない」ということを露骨に示したのです。

支那人の人間関係は、自分を中心とした同心円を描いています。仲間は自分の血縁者(宗族)とごく親しい友人だけで、外国人などただ利用するだけの野蛮人です。

南朝鮮の文大統領は、2017年12月に4日間の日程で国賓として支那を訪問しました。支那は、国賓である文大統領を支那高官が主催する晩さん会にほとんど招待せず、勝手に市中のレストランで食事をさせました。これは「大統領の一人メシ」として、世界中の話題になりました。

南朝鮮は、アメリカ軍がTHAADミサイルを国内に配備することを容認したことによって、支那のご機嫌を著しく損ないました。そこで支那は同心円の外側にある野蛮国の酋長にお灸をすえる為、彼を極端に冷遇したわけです。

日本は、国賓と名がつく以上、どんなに嫌な相手に対しても失礼なことはしません。日本人は長い間、日本列島に籠っていて外国人と交渉がなかったので、彼らに関する知識がなく、彼らが仲間か否かをあまり考えてきませんでした。そのために、彼らを日本人と同じように仲間として扱うのです。

日本人は、相手に対して「誠意は必ず通じる」と考え、やむを得ない場合は仲間から排除しますが、その前にできるだけ話し合いの機会を持とうとします。従って、話し合いに来た国賓に話し合いを実質的に拒絶するような失礼なことを、しないわけです。

また、大乗仏教の影響で「人間はみな同じで、民族や国籍、性格や能力・考えの違いなどは本当は無いのだ」と考えている日本人が多いです。そのために、国賓を最初から「我々とは違う人間だ」という態度を首相が示すと、国民から人格を疑われる恐れもあります。

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