日本には、二種類の平等の考え方があります。
一つは大乗仏教の教義から来た、平等の考え方です(無量寿経)。大乗仏教は、人種・男女・個性などの違いはまぼろしであり、一切の違いを認めません。学校の運動会で生徒たちに徒競走をさせる時に、着順に差がつかないように、みな横並びでゴールさせるように指導するというのはまさに仏教の平等の発想です(運動会の徒競走)。仏教は出家して社会から離脱した立場からものを考えます。従って浮世離れしていて、社会の現実とずれることが多いです。
キリスト教は、神が人間を作ったと考えます。それぞれの人間に固有の役目とそれを成し遂げるのに必要な能力を与えたので、役目と能力はみな違います。人間はもともと不平等に作られているのです。
この考え方は神道も同じです。自分の役目を遂行することとは無関係のプライベートなところで差別するのはいけない、というのがキリスト教や神道の平等です(王様や天皇陛下がおられても平等、酔っ払い運転をすれば誰でも逮捕される)。
日本の憲法で規定されている平等は、明治になって西欧から入ってきたので、キリスト教の平等の考え方のはずでした。しかし英語のequalityを日本語に訳すときに、仏教用語である「平等」という言葉を使ってしまったために、多くの日本人は仏教の平等も法的な権利だと勘違いしてしまいました。
平等を法的に考えるときは、その人の役割は何かを考えなければなりません。新入社員と部長では仕事に内容も給料の額も違いますが、部長と新入社員では役割が違うので差があって当然です。社会もこの差を「平等に反する」などとは言いません。
しかし休日に酔っ払い運転をして事故を起こしたら、それは二人の役割とは無関係なプライベートなことですから、平等に逮捕され牢屋に入らなければなりません。
女系天皇問題も、天皇陛下の役割は何かという視点から判断すればよい、と考えます。