小学校や中学校の運動会のメイン競技は、なんといっても生徒たちの徒競走です。私は徒競走でいつもビリだったので徒競走も運動会も大嫌いでしたが、みなさんはさぞ楽しかった思い出をたくさんお持ちだと思います。
以前、徒競走で先生が生徒たちに八百長をさせていたことが新聞で報じられて、大問題になったことがあります。着順に差がつかないように、みんなが一斉にゴールするように指導したのです。
このような八百長を先生が指導するなど、戦前はもとより私が小中学生だった昭和30年台、40年代でもありませんでした。
他にも似たようなことがたくさんあります。戦前は成績の悪い者はあたりまえに落第し、特に優秀な生徒は飛び級をしていました。ところが戦後は、落第も飛び級もなくなりました。
「人間の能力には生まれながらの差があるはずなのに、なぜ戦後の日本の初等教育は能力の差を認めようとしないのだろう」という長年の疑問は、仏教を学ぶことによって解消しました。
この発想は、仏教の平等観から来ています。
インドにはカースト制度があり、身分差別が極端に厳しい国です。ところがおシャカ様はカースト制度を否定し人間の平等を主張しました。当初は身分差別を否定していたのですが、次第に平等観がエスカレートし、ついには「肌の色の差だけでなく、個性や能力の差もない。人間ごとに差があるように見えるのは、心が欲望によって歪んでいるからだ」ということになりました。日本が導入した大乗仏教は、とくにエスカレートした平等観を持つ一派です。
日本は敗戦により神道の発想が弱くなり仏教の勢力が強くなったので、このように個人の能力差を否定する学校教育がなされるようになりました。