ゼレンスキーは板挟みになっている

ロシアがウクライナに攻め込んだのには、永い歴史的な経緯があります。しかし最近のことに限定して考えれば、2014年に起きた「ウクライナ騒乱」が直接の原因です。

2014年2月中旬にウクライナでクーデターが起きました。これが「ウクライナ騒乱」で、「マイダン革命」とも呼ばれています。反政府デモの結果、親ロシアのヤヌコビッチ大統領が失脚してロシアへ亡命し、反ロシア・親米のポロシェンコが大統領になりました。民主的な選挙で選ばれた大統領が、クーデターという非合法な手段で追い払われた、ということです。このことをマスコミはあまり報じないので、親米派=民主的と誤解している人も多いと思います。

怒ったプーチンは、クリミアをロシアに併合し、ドンバス地方(ウクライナ東部)のロシア系住民居住地域に、ドネツク人民共和国・ルガンスク人民共和国を作らせました。このクーデターの背後には、当然のことながらアメリカのCIAがいました。当時のアメリカの大統領はオバマで、副大統領はバイデンでした。

2014年9月にウクライナ、ロシア、ドンバスの二つの新しくできた共和国の4か国は、ミンスク協定を締結してドンバスの停戦に合意しました。さらに、2015年2月に、ドイツとフランスの仲介によって、ミンスク2という停戦協定が締結されました。この協定は、ドンバスの2地域に幅広い自治権を認めています。

2019年に大統領になったゼレンスキーは、当初はミンスク合意を守ろうとしていました。しかしアゾフ大隊などのネオ・ナチ勢力の反抗に直面して、ゼレンスキーも次第にミンスク合意に否定的になって行きました。

2021年10月、ウクライナ政府軍はドンバスの紛争地域で親ロシア派武装勢力をドローンで攻撃しました。ドローンによる攻撃はミンスク協定違反なので、緊張が高まりました。2022年2月にロシア、ウクライナ、フランス、ドイツの外相がミンスク合意を巡って会議をしました。ロシアは協定の完全履行を求めたのに対し、ウクライナは項目の修正を求めたため、合意に至りませんでした。そこでプーチンは、「もはや合意は存在しない」として、ウクライナに攻め込みました。

この8年余りの経緯を見ると、ゼレンスキーは国内のネオ・ナチとプーチンさらにはドイツ・フランスの間の板挟みになって、当事者能力を欠いている事がわかります。

ドイツとフランスは、欧州の騒乱は自国の安全を脅かすので、真剣になって和平に努力していました。ところが欧州から遠い安全地帯にいるアメリカの後押しを受けたウクライナのネオ・ナチが、強硬な態度に出ていたことも分かります。

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