日本に侵攻した元軍の兵士はほとんどが朝鮮人だった
モンゴル人が拉致して満州で農奴にしていた朝鮮人はモンゴル人とされていたので、15000人のモンゴル兵のほとんどが朝鮮人二世でした。モンゴル人は海が怖くて、ほとんど参加していません。つまり元軍の大部分が朝鮮人だったのです。
モンゴル人が拉致して満州で農奴にしていた朝鮮人はモンゴル人とされていたので、15000人のモンゴル兵のほとんどが朝鮮人二世でした。モンゴル人は海が怖くて、ほとんど参加していません。つまり元軍の大部分が朝鮮人だったのです。
モンゴル人は、敵の内情を探って、敵に内紛を起こさせるのが得意だったので、もしも元寇の時点で北条氏に対抗できる強力な武士団がいれば、そのような謀略を仕掛けられる恐れがありました。しかし、そのようなライバルはすでに粛清されていました。
忠烈王を始め歴代の高麗王の母親が元の帝室出身のモンゴル人なので、みなモンゴル風の名前を持ち、普段は元朝の皇族と共に、夏は草原のテントで暮らし、冬は大都(北京)の宮殿でモンゴル式に暮らしていました。彼らは、自分の事をモンゴル人だと思っていたはずです。
高麗の建国者である王建は、旧百済地域の住民を激しく差別しましたが、これが今でも続いています。1950年前後の朝鮮戦争の時期に、南朝鮮の政府は軍隊を動員して旧百済地域の住民を弾圧し、6万人を殺しました。
日本領だった任那は百済や新羅に割譲され消滅してしまいました。しかし百済も新羅も任那が日本に納めていた税金を、代わりに日本に納めていました(任那の調)。百済を滅ぼした後の新羅も、任那の調を日本に払い続けていたのです。
大伴部博麻は白村江の戦いで捕虜になり、長安に連れていかれました。そこで唐が日本侵攻を計画しているという情報を入手し、これを何とか日本に届けなければならないと思いましたが旅費がありません。そこで博麻は自分を奴隷に売って、その金で4人の日本人捕虜を日本に帰国させました。
7世紀初めの朝鮮半島には、高句麗・百済・新羅の三国があり、それぞれ仲が悪かったです。任那日本領はすでにありませんでしたが、日本は百済を応援していました。そして、この四国は、「支那こそ最大の脅威だ」という認識では一致していました。
朝鮮の正史である『三国史記』には、新羅王の一族は日本人だった、ということが書かれています。倭国の東北一千里のところにある多婆那国(北陸にあっ...
新羅が半島を統一したのは676年です。そして『三国史記』という正史を編纂してそれまでの半島の歴史を書きました。ところがそれが書かれたのが、半島を統一してから469年後の1145年なのです。新羅はそんなに長い間なぜ正史を編纂しなかったのしょうか。
朝鮮半島の南部と北部は、種族的にも・主要な産業においても・気候風土においても違うのです。そしてその境目が今の南北朝鮮の境界の38度線より少し北の北緯39度線あたりです。