満州は支那の一部ではない
ヌルハチの子孫は、満州の王であるとともに、清の皇帝であり、両国は同じ君主を戴く同君連合の関係でした。
ヌルハチの子孫は、満州の王であるとともに、清の皇帝であり、両国は同じ君主を戴く同君連合の関係でした。
支那事変が起きた時、日本と和平を結ぼうとしない蒋介石を日本軍は山奥に追い払い、最も豊かな沿岸部を支配していた南京国民党政府(汪兆銘主席)と、和平を結びました。
五・一五事件が起きた時、全国各地から裁判官のもとに、「減刑嘆願書」が山のように届きました。参加者が26人という少数の集団だったこともあって、日本人は230年前に起きた「赤穂浪士の吉良上野介邸討ち入り」を連想したのです。
昭和初期の国会は、今の「森友、加計」で大騒ぎしているのと同様に、下らないことをやって、国民の信頼を失いました
満洲事変を起こした関東軍参謀の石原莞爾中佐も朝鮮軍を越境させた林銑十郎中将も、参謀総長の許可も得ていませんでした。これは憲法違反であり、軍紀にも違反しているので、普通なら銃殺刑になってもおかしくありません。 ところが彼らは処罰を受けずクビにもならず、石原莞爾は最終的に中将になり、林銑十郎は首相にまでなりました。
昭和初期の政府指導者・政党幹部・外交官などの劣化が進み、国民は彼らを信頼しなくなりました。そうなると国民が頼りにするのは軍人だけになりました...
大正5年(1917年)にロシア革命が起きて、社会主義の国家が誕生しました。ソ連は、社会主義のもとでは失業がなく、国民は豊かで安全な生活をしていると虚偽の宣伝を世界中にしました。
金解禁により、日本経済は一気に恐慌状態となり、倒産と失業が激増し、円高になり輸出も壊滅状態になりました。東北の貧しい農民が生活のために娘を売ったのもこの頃です。
第一世界大戦が終わり、世界の列強は次々に金本位制を復活しました。日本も金本位制を復活しようとしたのですが、ちょうどその時に関東大震災が起こり(大正12年 1923年)、経済復興のために、延期になりました。そして今度こそ金本位制を復活しようとした時に、アメリカで大恐慌が起きたのです。
支那の暴徒が南京にいた外国人を襲いました。イギリスとアメリカの政府は報復のために海軍の砲艦で南京の暴徒の巣を砲撃しようとし、日本も誘いました。ところが幣原外務大臣は、この誘いを断りました。Freedomは、心の正しくない者には厳しい教育をしなければならない、と考えます。だから英米が暴徒を砲撃したのは、Freedomに則った行為です。幣原喜重郎は、Freedomの考え方を理解していなかったのです。当時も今も国際社会の原則はFreedomです。日本人の考える「自由」とFreedomは発想の根本が違うのです。それを外務大臣が理解していなかったのです。