Freedomを自由と訳したのは、誤訳

欧米社会にはFreedomという考え方があります。今からFreedomを説明していきますが、英語にはFreedomの他にLibertyという言葉があります。どちらも実質的には同じ意味で、キリスト教の信仰から来た言葉です。

明治になってFreedomを自由と訳しましたが、自由という言葉は日本に古くからある仏教用語です。鎌倉時代に書かれた「徒然草」の中にも「自由」という言葉が出てきます。「世を軽く思いたる曲者にて、よろず自由にして、おおかた人に従うということなし」(第60段)。

著者の吉田兼好は仏教の僧侶だったのですが、自由という言葉を「他人に配慮することなく勝手気ままに振る舞う」という仏教用語の意味で使っています。

明治初期に、キリスト教用語のFreedomに、仏教用語の自由を訳語としてあてはめました。キリスト教と仏教は宗教の教義の基本構造がまるで違うので、Freedomと自由の意味はかなり違います。私は、Freedomを自由と訳したのは誤訳だと考えています。

キリスト教には出家して社会から離脱するという考え方はありません。熱心な信者も社会生活を営みながら、信仰生活を送ります。西欧の都市や村の中心には立派な教会が建っていて、教会はまさに社会生活の中心なのです。

一方、仏教の熱心な信者は出家をします。家族を捨て社会を捨てて、山の中で修業するのが、仏教の理想の姿です。どの仏教寺院にも、比叡山延暦寺のように、○○山××寺という名前がついています。寺は本来、社会から隔絶した山の中にあるべきものです。今では市街地に寺院がありますが、これは本来の仏教のあり方に反しています。

つまり、Freedomは社会生活の中で使う言葉ですが、それに世捨て人が山の中で使う自由という言葉をむりやり当てはめようとしたのです。

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