助け合う仲間を同じ民族の仲間に限定しよう、という考えに戻りつつある

キリスト教は、イエス・キリストを信じれば良い、という宗教です。ところが次第に教会への寄付や免罪符を買うなどという「善行」がカトリックで重視されるようになりました。これでは、免罪符を買えばイエス・キリストを信じていない偽善者であっても天国に行ける、ということになってしまいます。

カトリック教会のやっていることが、キリスト教の根本教義から外れていることを指摘したのが、マルティン・ルターでした。ルターの指摘に多数のキリスト教徒が賛同して、カトリック教会を離脱しプロテスタントという新しい宗派を結成しました。当時西欧最強の組織だったカトリック教会の権威が揺らぎ、それまでの社会体制が崩れはじめたのです。

ルターの始めた宗教改革によって、イエス・キリストを信じさえすればそれで良いのだ、というキリスト教の教義を多くの信者が再認識しました。

キリスト教にはもう一つ、「隣人愛を行いなさい」という教義があります。隣人同士は互いに助け合いなさい、という教えですが、隣人とは全ての人間を指すのではなく仲間という意味です。仲間の範囲は曖昧ですが、おおよそは同じ信仰を持っている者を指します。宗教改革が始まった16世紀は、キリスト教の同じ宗派に属する者が仲間で、民族が違っていてもよかったようです。

その後西欧で民族が統一国家を作った18世紀以後は、同じ言葉を話す同一民族を仲間と考えるようになり、宗派が違っていてもキリスト教徒であれば良い、ということになっていきました。

20世紀後半に欧米の政府やマスコミはグローバル化を推進し、人種が違っても宗教が違っても人間であればよい、と仲間の範囲を極端に拡大解釈して国民に押し付けました。しかし移民問題をきっかけに、最近はこの強引な解釈は信用を失い、従来の「同じ民族のキリスト教徒」という解釈に戻りつつあるようです。

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