聖書は、道徳を説いているのではない

「イエス・キリストを信じれば、聖霊の働きによって心が浄められ正しくなる」というのが、キリスト教の教えの真髄です。他に修業などをする必要はありません。キリスト教は徹底的に他力本願なのです。

キリスト教を勘違いして、仏教や儒教と同じように修行を積んだり教義の勉強が必要だと思っている人がいます。そういう人は聖書を道徳集だと思って熱心に読んでいますが、聖書はそういう目的で書かれてはいません。

例えば、旧約聖書に『ヨブ記』があります。ヨブという金持ちで子供にも恵まれた幸せ者は、神を深く信仰していました。神はヨブの信仰を試そうとして、彼を破産させ子供たちを死なせ、ヨブをひどい皮膚病にしました。しかしヨブは神を恨まなかったので、神はヨブを再び幸せにしました。

神は、ヨブをおもちゃにしたわけです。聖書が道徳を説くものであるならば、神を神格者(人格者?)として描くはずで、人に対する配慮を欠いた者のようには書かないはずです。聖書は単に、ヨブはいかなることがあっても神を信じていた、ということを強調したいだけです。

新約聖書は、イエス・キリストを信じることを強調しています。彼は死者を蘇えらせたり、病人を治したり、水の上を歩いたりと凄い力を持った「神の子」として描いています。だからイエス・キリストを信じなさい、と主張しています。

カトリックは今でも、マリア像が血の涙を流すとか、南フランスのルルドの泉に浸かったら不治の病が治ったなどといっています。これは単に熱狂的な信者が勝手に言っているのではなく、教皇庁が調査したうえで、正式に奇蹟だと認定しています。

日本では、「信じる者は救われる」などというのはインチキ新興宗教の常套手段だ、と考えられています。しかし、キリスト教こそ「信じる者は救われる」という宗教の元祖なのです。

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