国家と国民は助け合う関係

日本もオーストラリアも共に、中国の工作によって弱体化しつつあります。国防上重要な土地や技術を持つ企業が中国人に買収され、政治家やマスコミ・大学などに対する工作により、国民が中国に対して誤った知識を植え付けられています。

日本やオーストラリアより先に中国に侵略され、国土を奪われジェノサイドされているのがウイグルです。ウイグルの状態を放置すると、今度は日本やオーストラリアの番になります。ウイグルのジェノサイドに反対することは、自国を守ることなのです。

中国がやっているジェノサイドを政府が認定すれば、中国はその国の企業に経済的なダメージを与えて報復をします。国を守ろうとすれば、国民や国内企業に犠牲を払うことをお願いすることになります。そしてオーストラリアは、このような判断をしました。

日本人は「自由」の意味を誤解しています。「自由」は、「勝手気ままに振舞うこと」という意味なので、自由の権利を主張するということは、国家が個々人に命令することは一切できない、ということです。

ところが西欧のFreedomという考え方は、私権制限を容認します。ジョン・スチュアート・ミルは、『On Liberty』という本の冒頭で、Freedomについて次のように書いています。「国家や社会は、個人に対して権力を行使できる。ただしそれには限界がある。」と書いています。Freedomは、国家や社会が個人に権力を行使することを認めているのです。

ではどういう時に国家や社会が個人に権力を行使できるのかというと、「他人に危害が及ぶのを防止する時」です。この説明は正当防衛しか認めない、と言うようにも読めますが、本当はもっと適用範囲が広いです。

人は誰でも社会によって保護されています。社会が攻撃され滅びようとしているときにそれを見過ごせば、自分を守ってくれるものがなくなってしまいます。社会が攻撃されたら、個人に対して社会を守るように強制できる、とミルは言っています。

その典型的なのが戦争で、敵から社会を守るために、元気な者は軍隊に参加しなければならず、それ以外の人は税金を払ったり、労力を提供したりしなければなりません。国防に参加するのは国民の義務だ、というのがFreedomの考え方です。

Freedomは本来、富国強兵的な考え方です。ここで、Freedomの視点から、中国がウイグル人にしていることをジェノサイドだと認定することを、考えてみます。中国がウイグル人に行っていることを傍観していたら、その国が中国になめられ、次はその国が中国から侵略されることになります。

つまり、中国がしていることをジェノサイドだと認定することは、自国と社会を守ることでFreedomの発露です。そのためには、個人や企業は、犠牲を払わなければなりません。オーストラリアがジェノサイド認定したのは、こういうことです。

日本人も自由という言葉はもともとFreedomのことであることに気づいてほしいものです。中国がウイグルでしていることを日本がジェノサイド認定すれば、中国に進出している企業は中国から嫌がらせを受けます。しかしそれは、国家・社会から守られていることに対する恩返しなのです。

オーストラリアが中国のジェノサイドを認定したのは、欧米のFreedomの考え方から出ています。日本人はFreedomを自由と訳したので、二つの言葉は同じ意味を持つと思い込んでいます。ところが日本語の自由のいう言葉には、国家や社会を守るために国民に協力を求め犠牲を払うことを要求する、という発想は含まれていません。

つまり、今の日本人が中国の行っているジェノサイドを認定しないのは、日本語の自由に「国民は国家や社会を守るために協力しなければならない」という意味がないからです。

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コメント

  1. 法太郎 より:

    「国家の為に犠牲を払う」と言う考えが忌避されるとしたら、先の大戦で余りにも犠牲を払いすぎたからじゃないですかね。
    そして、日本人は一度「滅私奉公」のような観念が刺激されると、止まることを知りません。今も、国家に対して忠誠が向けられずとも、所属企業に対しては無限の忠誠が向けられている傾向があります。
    つまり、自由や人権のもうひとつの意味、「自分を幸せにする」自己尊重の傾向が元々弱いのです。もっとも、これはキリスト教的な自由主義の問題点でもあり、一般的には宗教は自己尊重の傾向が弱い。
    現代では、キリスト教の観点から自由を擁護する人は欧米人であっても稀で、多くはヒューマニズムの観点から人権弾圧を批判しているのだと思います。