李氏朝鮮の両班は、利権争いばかりしていた
李氏朝鮮では、政権の座に着くと様々な利権が転がり込んできます。その利権をめぐって、日本では信じられないほど激しい派閥争いが展開されました。
李氏朝鮮では、政権の座に着くと様々な利権が転がり込んできます。その利権をめぐって、日本では信じられないほど激しい派閥争いが展開されました。
朝鮮の農民は土地に土着していないので、おらが村さを守る気がないし、都の両班も民を養う気がありません。秀吉は大名たちの志気を高めるために朝鮮の...
李氏朝鮮の創始者の李成桂と彼の家来は、満州近くの北朝鮮北部出身の女真人でした。彼らは高麗の支配層で従わない者を皆殺しして、朝鮮全体をいわば占領したような形になりました。そして都から役人を派遣して地方の土着の豪族を抑えつけました。
朝鮮出兵の2年前に、李氏朝鮮から正使の黄允吉と副使の金誠一という二人の使者が日本にやってきて秀吉に会いました。この時に二人は、秀吉の顔をじっと観察して彼の心中を推察しました。正使は「秀吉は危ないから気を付けろ」と報告し、副使は「彼は小物だから放っておいても大丈夫だ」と言いました。
李氏朝鮮は、1万8千人が船で対馬に来寇しました。倭寇を退治するという名目です。足利幕府は迎撃部隊を派遣しようとしましたが、それが到着するまでの間に、対馬国守護の宋貞盛が600人の手勢だけで打ち破りました。朝鮮側はおよそ2500人が死にました。
李氏朝鮮の創始者である李成桂(1335年~1408年)の父親は、ウルスブハという名の女真人で、咸鏡南道(今の北朝鮮の東北部)で千人隊長として元に仕えていました。北緯39度以北の北朝鮮は、当時は元の領土になっていたのです。
元の使臣が「高麗に駐在する元の役人や軍人に女を献上せよ」と、高麗に命じました。忠烈王は全国に官吏を派遣して、美女を強制的に徴発しました。また、処女を確保するために、12歳以下の少女が結婚することを禁止しました。
鎌倉幕府の行政組織でも一番重要なのが、武士の統制を行う侍所と裁判を行う問注所で、鎌倉幕府は必死になって公正な裁判を行っていました。ところが最後になって長崎円喜という執権の家来が賄賂を取って不正な裁判を行ったために、御家人の不満が高まり幕府が崩壊したのです。
朝鮮から襲来した東路軍は、対馬・壱岐を襲い、男は皆殺しにして、女は手のひらに穴を開けてひもを通し、船べりに数珠つなぎにしていました。何のため...
モンゴル人が拉致して満州で農奴にしていた朝鮮人はモンゴル人とされていたので、15000人のモンゴル兵のほとんどが朝鮮人二世でした。モンゴル人は海が怖くて、ほとんど参加していません。つまり元軍の大部分が朝鮮人だったのです。