日本の家は、開放的で互いにつながっている
日本の家は、他の家と互いに密接に関連していて、広義の家を形成しているのです。日本全体が一つにまとまって助け合うのは、家が開放的だからです。
日本の家は、他の家と互いに密接に関連していて、広義の家を形成しているのです。日本全体が一つにまとまって助け合うのは、家が開放的だからです。
終身雇用と年功序列制度は戦後の高度成長期にだけ見られた現象であり、その後は家制度が昔ながらの状態に戻ったと言えます。戦前に終身雇用や年功序列制度を実施していた組織は陸海軍だけでした。それも士官学校を卒業した士官だけで、徴兵された兵隊はその範囲外でした。
明治以後の家は世襲の要素が少なくなった代わりに、内部の結束を強めるために様々な仕組みが産み出されました。その一つが特に戦後に顕著な年功序列です。学校を卒業した後すぐに企業に入り、長年勤めることで徐々に昇進する仕組みによって、世襲と似たような安定感を醸成するのです。
武士は家の存続と発展を図ることが務めだと考えていましたが、この考え方が明治政府の各組織にも生まれたのです。江戸時代の家は名門武士が指導者となっていましたが、明治政府の組織ではそれが教育を受けた下級武士に替わったわけです。
江戸時代の武士は、正規の「石取り侍」と非正規の「扶持取り」にはっきりと分かれていました。本来の武士は石取り侍であって、足軽など「扶持取り」は...
討ち入りした赤穂浪士の内訳をみると、今の企業の管理職に相当する家老・物頭が3人、正社員クラスの用人・馬廻り・小姓が33人、非正規雇用に相当する下級武士が10人です。46人の8割は、今の企業で言えば正社員だったということです。
赤穂浪士たちは、神様も認める正しいことを行うのであれば、社会の法律に反してもやむを得ないと考えました。この誠の考え方に従って、彼らは討ち入りを決行したのです。
350人の武士の内、126人が大石内蔵助と行動を共にすると誓いました。この中には足軽や下級武士はほとんどいませんでした。彼らには浅野家に所属しているという意識がなく今で言う契約社員で、地域社会に密着していたので他に仕事を見つけることができたのです。
浅野内匠頭が斬りつけたのに対し、吉良上野介は逃げ出しただけで、刀を抜いて反撃することはありませんでした。そこで幕府はこの事件は喧嘩ではなく、浅野内匠頭の一方的な殺人未遂だと判断しました。
譜代の家来の役目は、第一に事業体である大名家を存続させることであって、殿様個人の幸せを図ることではありません。殿様がバカ殿でこのままでは御家が取り潰される恐れがある時、筆頭家老などの重臣はそのバカ殿を始末して御家を保つことも役割の一つだと考えられていました。