心正しいキリスト教徒に限って、律法を破っても良い場合がある
キリスト教が主張する「律法からの自由」というのは、律法を守ることが前提にあります。しかし、「イエスを信じて心が正しくなっているキリスト教徒に限っては、律法を破っても良いときがある」という考え方なのです。
キリスト教が主張する「律法からの自由」というのは、律法を守ることが前提にあります。しかし、「イエスを信じて心が正しくなっているキリスト教徒に限っては、律法を破っても良いときがある」という考え方なのです。
ルターは、「キリスト教徒は信仰だけで十分であり、いかなる行いも必要がない。だとすれば、彼は律法から解放されているから自由だ。これがキリスト教的な自由なのである」と書いています。
「善行は神の力に頼っていないので、信仰のように多くを成し遂げられない。人間はイエス・キリストを信じるだけで十分であり、善行は不要だ」、ということをルターは書いています。
プロテスタントは、イエスを信じればそれでよいのだ、と考えます。信じる者は救われるのです。
、「努力して原罪を消し去る」というカトリックの教義に、ルターは疑問を感じました。
ルターは、「キリスト者の自由」という論文を書きました。これはプロテスタントの信仰の本質について論じたものですが、信仰の本質を論じたら、結果的にFreedomについて書いたことになりました。即ち、Freedomとはキリスト教の信仰そのものです。
明治維新になって日本がFreedomの考え方に接した時は、欧米諸国はFreedomからキリスト教の表現を消し去り、「文明的であれば、どの民族...
イギリスではFreedomからキリスト教の宗派の枠を取り払う考えが次第に勢力を増していました。ミルはこの考え方を拡張して、キリスト教枠をも外してすべての宗教を同列に扱うべきがと考えたのです。
ミルは歴史上の事実を述べて、「完全に正しい宗教や思想などない。その時々の人々の考え方にどうしても影響される」と書いています。「だからキリスト教といえども、完全な真理を説いているわけではない」と書いています。
ミルは、思想と言論の自由が最大限に認められるべきだと主張しています。そうなると「Freedomはキリスト教徒に限定される」という前提が邪魔になります。だからミルは「文明国」がどこかということに触れなかったのです。