李氏朝鮮は、自国の防衛のために、進んで貧しくなった
高麗時代には馬や牛が曳く荷車があったのですが、李氏朝鮮時代には車輪を作る技術が失われ、荷車がなくなってしまいました。
高麗時代には馬や牛が曳く荷車があったのですが、李氏朝鮮時代には車輪を作る技術が失われ、荷車がなくなってしまいました。
両班には、商人や民家から代価を払わずに物を強奪して良いという特権があり、それを日本に来ても、やっていたということです。朝鮮の身分差別というのは日本人の想像を超えるもので、むしろインドのカースト制度に近いです。
朝鮮人は両班・中人(下級官僚階級)・常人・奴婢・白丁の五種類に分かれていました。現代でも、朝鮮人の差別意識の強烈さは相変わらずです。
李氏朝鮮の両班の派閥争いで勝負がつくと、勝った方の派閥は負けた側を殲滅します。官位を奪って隠居させるなどという日本式の生ぬるい処罰ではなく、九族を皆殺しにする処刑法までありました。本人を殺すだけでなく、その高祖父(祖父の祖父)から玄孫(孫の孫)まで殺すのが「九族皆殺し」です。
李氏朝鮮では、政権の座に着くと様々な利権が転がり込んできます。その利権をめぐって、日本では信じられないほど激しい派閥争いが展開されました。
朝鮮の農民は土地に土着していないので、おらが村さを守る気がないし、都の両班も民を養う気がありません。秀吉は大名たちの志気を高めるために朝鮮の...
李氏朝鮮の創始者の李成桂と彼の家来は、満州近くの北朝鮮北部出身の女真人でした。彼らは高麗の支配層で従わない者を皆殺しして、朝鮮全体をいわば占領したような形になりました。そして都から役人を派遣して地方の土着の豪族を抑えつけました。
朝鮮出兵の2年前に、李氏朝鮮から正使の黄允吉と副使の金誠一という二人の使者が日本にやってきて秀吉に会いました。この時に二人は、秀吉の顔をじっと観察して彼の心中を推察しました。正使は「秀吉は危ないから気を付けろ」と報告し、副使は「彼は小物だから放っておいても大丈夫だ」と言いました。
李氏朝鮮は、1万8千人が船で対馬に来寇しました。倭寇を退治するという名目です。足利幕府は迎撃部隊を派遣しようとしましたが、それが到着するまでの間に、対馬国守護の宋貞盛が600人の手勢だけで打ち破りました。朝鮮側はおよそ2500人が死にました。
李氏朝鮮の創始者である李成桂(1335年~1408年)の父親は、ウルスブハという名の女真人で、咸鏡南道(今の北朝鮮の東北部)で千人隊長として元に仕えていました。北緯39度以北の北朝鮮は、当時は元の領土になっていたのです。