移民賛成派も反対派も、自由を違う視点で考えているだけ

グローバル化への動きと移民排斥の動きという相反する動きは共に、キリスト教の信仰から生まれたFreedom(自由)という考え方に基づいていて、互いに兄弟の関係にあります。

キリスト教の自由は、「イエス・キリストと同じ正しい心を持った人間は、自然に仲間を助けるようになる。正しい心から人助けをしようとした場合は、世の中の法律や掟を破っても構わない。」という考え方です。

この自由の考え方を経済活動にあてはめたのが、経済的自由です。良い製品を安く販売することは人助けになる正しい行為だと考えるので、その製品を安く売るために障害になる法律や慣習を打ち破っても構わないという考え方です。

西欧の移民問題を経済的自由の視点から考えると、次のような構図になります。 もともと国家はそこに昔からそこに住んでいる国民が作ったもので、国民は互いに助け合って暮らしていました。よそ者がそこに住むには住民の許しが必要で、住民の仕事を奪うような迷惑行為は許されませんでした。

ところが大企業が経済的自由を主張し、自分の勢力を利用して法律を変え、移民が簡単に国内に住めるようにし、とりあえず落ち着くまでの生活費の支給や職業訓練などが税金で行われるようになりました。その結果、安い賃金で働く移民がもともとの住民の職を奪ってしまいましたが、大企業は人件費を引き下げることができました。これが近年の西欧で行われているグローバル化の実情です。

移民に職を奪われた一般国民の側からこの問題を考えてみても、やはり自由の問題になります。「移民は異教徒だからイエス・キリストと同じ正しい心を持っておらず、人を助けることもしない。だから彼らには自由はない」と考え、「この国に住むという居住の自由はない。だから移民を入れるな」という主張になります。

西欧の移民受け入れ賛成派も排斥派も共に「自由」の問題だと考えており、ただ「何が正しい心なのか」という点で違うだけなのです。考え方の枠組みが同じで、具体的な解釈が違うだけなので、状況が変わると一方から他方に容易に考えが変わります。

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