唐の帝室は異民族出身で、儒教を敬遠した

支那で2世紀末に大きな内乱が起きましたが、それが収まると、今度は北方の騎馬民族が支那に侵入し、次々と王朝を建てました。

騎馬民族の一つに鮮卑族があります。彼らは支那の北部の武川鎮に軍事拠点を設け、そこを根拠地にして支配地を広げていきました。隋王朝の楊氏も唐王朝の李氏も、ともに武川鎮の幹部の出身で、もとをたどれば北方騎馬民族である鮮卑族の出身です。

唐王朝が滅びたのが西暦907年ですから、支那は4世紀から10世紀初頭までの600年間異民族に支配されていたわけです。

唐王朝の皇帝たちは、異民族そのままの行動をしていました。二代目皇帝の李世民(太宗)は、兄である皇太子を殺害し父を幽閉して強引に皇帝になりました。儒教では孝を最重視するので、李世民はとんでもない不孝者です。もしも彼らが支那人であったのならば、そこまではやらないはずです。ところが北方騎馬民族者実力主義で、長男が必ずしも跡を継ぐわけではなく、支那人ほど親を大切にしません。

玄宗皇帝は、楊貴妃とのラブロマンスで有名です。実は楊貴妃は、玄宗皇帝の18男李瑁の妃だったのですが、親父が取り上げてしまったのです。北方の騎馬民族の社会では、肉親の妻を娶る習慣がありました。玄宗皇帝が息子の嫁を娶ったのは、騎馬民族としては常識の範囲です。

肉親の妻を娶るといっても、そのほとんどの場合は跡継ぎの息子が亡父の側室たちを自分の妾にしていました。玄宗皇帝の場合は、まだ息子が生きていたので、騎馬民族の習慣からも逸脱したスキャンダルです。親父の好色のためだったのですが、騎馬民族にとっては許容範囲の中の行動だったようです。

しかし支那では、そういう習慣は野蛮人がすることだと考え忌み嫌っていて、儒教から見るととんでもない不道徳な行為でした。

儒教の学者たちは、唐の王室の異民族的な振る舞いにギャーギャー言っていました。だから唐の王室も儒教を敬遠し、仏教や道教を篤く遇しました。仏教は、支那人の精神的な悲しみに解決策を提示し、また唐の帝室の保護を受けて、唐末までは大きな勢力を維持していました。