2世紀末の内乱期以来、支那では仏教が大流行し儒教の人気が下がったため、儒教は仏教の心の理論を取り入れて、朱子学という新しい儒教を作り出しました。ライバルにセールスポイントを真似された仏教は、9世紀後半(唐末)から急激に衰退し、朱子学にとってかわられました。
朱子学も儒教ですから、「皇帝や官僚たちが道徳を守れば、社会は安定し、民はたらふく食える」と教えています。服装・お辞儀の仕方・言葉遣いなどが規定に合致していれば、その人は道徳的だと判断します。日本人のように、心が正しければ外観などどうでもいいだろう、という考えは通りません。ここまでは従来の儒教と同じです。
朱子学は、外観が規定通りになっていなければならないという儒教の発想と、人間の心の中の動きを説く仏教の教えを混ぜ合わせたものです。
大乗仏教は、人間の心の中に仏様が宿っている、と考えます。朱子学はこれをコピーして心の中に道徳心が宿っていると考えました。人間が修行によって道徳心の存在に気づけば、儒教が規定する通りの振る舞いをすることができるわけです。
朱子学が生まれて心の動きの理論が儒教に取り入れられれば、支那人は仏教に用がなくなりました。仏教には外観を規定通りに整えなければならない、という発想がありません。外観を問題にしない仏教に支那人は納得しなかったのです。また支那人は宗族(血族))を異常に大事にしますが、仏教の出家は宗族を捨てることなので、支那の最高道徳に反します。
江戸時代に日本人は朱子学を輸入しましたが、日本人は支那人と逆の反応をしました。誠という日本の伝統的な考え方には、外観を良くしなければならないなどという発想はありません。だから外観をうるさく言う朱子学に納得しなかったのです。
将軍や大名などの支配者は武士に朱子学を奨励したので、武士も仕方なくそれを学びました。しかし明治になったとたんに、朱子学は相手にされなくなりました。