国家を守るのは国民の義務

Freedomの考え方とは、下記の三つだけなのです。

  • 社会が個人に強制できるのは、他人に危害が及ぶのを防止する時だけである
  • 相手にとって良いことだ、という理由で強制することは許されない
  • 個人の行動のうち、社会に対して責任を負わなければならないのは、他人に関する部分だけである

テキサス州のアボット州知事は、州民にワクチンを接種することを奨励しましたが、Freedomの考え方に従って、決して強制はしませんでした。いくらワクチンを打つことが相手にとって良いことでも、Freedomに反するからです。また州の公共施設を使う時に、ワクチンパスポート(ワクチンを接種したという証明書)の提示を求めてはならない、とも命令しました。これは強制につながるからです。

ただし、この原則は判断能力が成熟した大人にだけ適用される、とミルは言っています。子供は対象になりません。子供は他人に対して危害を加えるようなことをするかもしれないし、外部から危害を受けるかもしれません。だから子供が自分で判断することを許してはなりません。

社会が十分に発達していない遅れた民族も対象外だ、とミルは言っています。社会の進歩につくす支配者は、他に手段がなければどのような手段を使ってもよいのです。また、野蛮人を進歩させるのが目的であれば、野蛮人に対しては専制政治が正当な統治方法だ、とまで言っています。Freedomという原則は、人々が何の制約も受けずに対等に議論して、それによって社会の改善を行うことが出来る段階に達してようやく適用される、というわけです。

「社会が個人に強制できるのは、他人に危害が及ぶのを防止する時だけである」、という原則は、かなり限定されているように思えますが、実際はかなり広い範囲で社会は個人に強制できる、とミルは考えています。

人は誰でも社会によって保護されています。だから人は、保護されたことに対して対価を支払わなければなりません。社会が攻撃され滅びようとしているときにそれを見過ごせば、自分を守ってくれるものがなくなってしまいます。社会が攻撃されたら、個人に対して社会を守るように強制できる、とミルは言っています。

その典型的なのが戦争で、敵から社会を守るために、元気な者は軍隊に参加しなければならず、それ以外の人は税金を払ったり、労力を提供したりしなければなりません。国防に参加するのは国民の義務だ、というのがFreedomの考え方です。従って、日本国憲法の第9条は、Freedomに反します。

戦争に至らなくても、社会が何かしら被害を受けたら、社会は自分を守る権利があります。例えば、酔えば他人に暴力をふるいたくなるような人間が酔っぱらうのは、社会に対する犯罪だから、酒を飲むことを禁止できるというのです。怠けて自分の子供を扶養できないような人間に対しては、強制労働を課すのは違法ではありません。

Freedomは本来このように、社会が個人を守る代わりに個人は社会を守らなければならない、という双方向の関係です。疫病によって社会が攻撃を受けたら、社会は各個人に向かって、外出を禁止し社会を守るように命令することができます。

社会の経済的な仕組みが非効率だと、各個人も社会も貧しくなります。特定の分野を国家が優先すれば社会全体が豊かになり個人や社会を貧困から守ることが出来る場合があります。イギリスがやったような最低賃金の大幅な値上げ、明治政府がやったような官営事業に税金を投入する方法、敗戦後の日本がしたような重点産業への銀行融資の集中などです。

Freedomはこのような方法を悪いことだとは考えません。むしろ積極的にやるべきだ、と考えます。ところが「自由」の考え方は、このようなやり方は「勝手気ままに振舞う権利を侵害している」と考えます。その結果、社会や個々人を守ることができなくなるのです。

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