大石先生は、土木が経済成長に絶対に欠かせないことを、歴史的事実を列挙して強調しています。具体的に説明されると納得できるので、少し細かく説明します。
水田で稲作をするには、川から用水路を引き、堤防を作って洪水を防ぎ、地面を平らにしなければなりません。戦国時代初期の1500年頃の日本の水田面積は100万町歩でした。しかしその後に土木技術が急速に発展し、大きな川の下流も堤防で洪水を防げるようになり、広大な荒れ地が開墾されました。その結果、1700年頃には水田面積が300万町歩にふえ、人口も三倍になりました。このような経済成長の上に、元禄文化が栄えました。
京都は、794年から日本の首都でしたが、1603年に江戸幕府が誕生したことにより、実質的に首都でなくなりました。そのために京都は単なる田舎町に没落する危機に瀕しました。その時に角倉了以が高瀬川を開削しました。高瀬川は京都の中心と京都府南部を東西に流れる宇治川を結ぶ運河です。
宇治川は途中から淀川と名称を変えて大阪湾に注ぎこんでいます。つまり高瀬川という運河によって、京都の中心と大阪が船便でつながったのです。大阪は海運を通じて全国につながっているので、京都は日本全国の物流ネットワークに組み込まれました。その結果、京都は産業都市として繁栄を継続することができました。
土木と言えば古代ローマです。ローマは版図内のいたるところに道路を建設していました。二台の荷馬車が行き違えるように道幅が4メートルあって厚い石で舗装していました。この道路のおかげで、補給品を満載した荷馬車を伴ったローマ軍が迅速に行動できたので、軍事力を効率的に活用することができました。
最盛期のローマは上水道を完備して、首都ローマの100万人の人口を支えました。そして100万人という巨大都市の機能があって初めて、広大な版図の統治が可能でした。ローマが地中海世界を征服できたのは、道路と水道という土木工事が得意だったからです。
首都ローマだけでなく、征服した土地でも道路と水道を建設しました。このおかげで被征服地の産業も発達し生活水準も向上しました。その結果、被征服民はローマの支配を受け入れるようになりました。古代ローマの繁栄の基礎は、土木工事だったのです。