公共投資は、文明の基盤か、お上の恩恵か

英語のCityの語源は、ラテン語のCivitas(キビタス)ですが、「壁の中にある人々が集まる場所」という意味だそうです。市民はCityの中に住んでわが身を守るのですが、そこに住むには一定の義務を果たさなければなりません。

城壁を増設する時には自分の土地を提供する義務があったし、城壁を守る兵士になったりしなければならなかったのです。近代になって革命が起き所有権が確立しても、都市に対する義務の観念は残りました。従って、公共のためであれば、所有権は制限されるのです。

一方日本では、城壁を巡らせた都市に守ってもらうという利点がなかったので、都市のために土地所有を制限されるということもありません。そこで明治になって土地の所有権が確立されると、それは絶対的なものになりました。だから政府が土地の売買に干渉することが難しいのです。

城壁を作り、水道を引き道路を作ることで、都市の中に文明が栄えるようになります。土木という下部構造(インフラ・ストラクチャー)が土台となって、その上に文明があるわけです。自分たちの命を守り、文明を維持発展させるためには、土台となるインフラ・ストラクチャーを絶えず修理・改善し続けなければなりません。

西欧の先進国が、財政が苦しくなっても、道路や鉄道建設のような公共投資(infrastructure、インフラ・ストラクチャー)に優先的に資金を投入し続けるのは、このような発想からです。

一方明治の日本人は、インフラ・ストラクチャーという英語を「土木」と訳しました。これは「築土構木」という言葉を短く省略したものです。支配者が民に対する恩恵として、堤防を築き、山に木を植えてやる、という意味です。

日本の土木は政府の恩恵なので、財政が苦しいときはしなくても良いことになります。バブル崩壊以後、政府は緊縮財政を続けるために、公共投資を大幅に削減しています。日本人の多くが、土木はいままで散々やってきたので、これ以上する必要がないと考えています。だから政府としても、予算を削りやすいのです。

民主党政権が、公共投資を「コンクリートから人へ」というスローガンを使って削減したのも、このような日本人の発想を利用したものです。その結果、近年は自然災害による被害が拡大しています。

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