男女は異なると思ったらいけない、と朝日新聞は主張

朝日新聞が主張している男女平等は、オリンピック憲章の目指しているものとは違い、選手数や競技者数ではありません。量的な平等ではなく、「差別」を問題にしています。だから、森氏は「反差別」のことなど言及していないのに、「反差別」を謝罪したなどと、「誤報」をしているのです。

森氏は、「女性っていうのは優れているところですが、競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんなが発言されるんです」と、言いました。女性には男性と異なると、森氏なりに自分の女性に対する見解を述べたのです。

人の個人的見解には、普通の人は文句を言いません。ところが朝日新聞の記者は、森氏の個人的な見解が差別にあたると判断しました。つまり、「男性と女性が違うと考えること自体が、悪いことだ」と主張したのです。

日本の大乗仏教は、天体も人間も動植物もすべては仏様であって、本当は渾然一体になって分けられないものだ、と考えます。しかし、それを無理にどんどん分けて考えていくと(差別していくと)、分かれた小さなものが次第に人間や物などの姿になっていく、というのです。そして、それらの人間や物に執着するようになると、苦しみが生まれる、と考えるのです。

つまり、「これとあれ」「自分と相手」「男性と女性」など、本来は一体となっている仏様を分けて考えるのは不幸の原因だから良くないことだ、というのが大乗仏教の教義です。「差別」というのは大乗仏教の用語なのです。

IOCのオリンピック憲章は、大乗仏教の「差別」とは全く別のことを考えています。男性と女性は違うから、別に扱うことに疑問を持っていません。男性と女性を一緒に競争させてメダルを争うだとということは考えていません。ただ、男性用と女性用の競技の数を同じにし、選手も男女同じ数にするべきだ、と主張しているだけです。

もしも朝日新聞の記者のように、男性と女性が全く同じだとしたら、男性用と女性用に競技を分けずに、同じ競技に一緒に参加すれば良いのです。それを主張できないのは、男性と女性は明らかに違うからです。これからも分かるように、朝日新聞の主張は、全く現実を無視しています。

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