陸軍の軍人は、大アジア主義者だった
昭和初期の政府指導者・政党幹部・外交官などの劣化が進み、国民は彼らを信頼しなくなりました。そうなると国民が頼りにするのは軍人だけになりました...
昭和初期の政府指導者・政党幹部・外交官などの劣化が進み、国民は彼らを信頼しなくなりました。そうなると国民が頼りにするのは軍人だけになりました...
大正5年(1917年)にロシア革命が起きて、社会主義の国家が誕生しました。ソ連は、社会主義のもとでは失業がなく、国民は豊かで安全な生活をしていると虚偽の宣伝を世界中にしました。
金解禁により、日本経済は一気に恐慌状態となり、倒産と失業が激増し、円高になり輸出も壊滅状態になりました。東北の貧しい農民が生活のために娘を売ったのもこの頃です。
第一世界大戦が終わり、世界の列強は次々に金本位制を復活しました。日本も金本位制を復活しようとしたのですが、ちょうどその時に関東大震災が起こり(大正12年 1923年)、経済復興のために、延期になりました。そして今度こそ金本位制を復活しようとした時に、アメリカで大恐慌が起きたのです。
支那の暴徒が南京にいた外国人を襲いました。イギリスとアメリカの政府は報復のために海軍の砲艦で南京の暴徒の巣を砲撃しようとし、日本も誘いました。ところが幣原外務大臣は、この誘いを断りました。Freedomは、心の正しくない者には厳しい教育をしなければならない、と考えます。だから英米が暴徒を砲撃したのは、Freedomに則った行為です。幣原喜重郎は、Freedomの考え方を理解していなかったのです。当時も今も国際社会の原則はFreedomです。日本人の考える「自由」とFreedomは発想の根本が違うのです。それを外務大臣が理解していなかったのです。
日露戦争から6年後に大正の世になりました。この頃から日本を取り巻く内外の環境が激変し、同時に日本の為政者の劣化が始まって、対外的な方針がグラグラし始めました。
日露戦争までの日本がやった事は国家主権の確立でした。指導者たちは、欧米にも留学して、近代国家の骨格をかなり理解していました。日露戦争に勝って日本がその目的を達した後、彼らは次々と亡くなりました。
幕末に活躍し、明治以降も政府の最高幹部として勢力を振るった元老は何人かいますが、その中でも特に有力で日露戦争後まで生き残ったのは、伊藤博文(...
日本は日清戦争(1894~1895年)と日露戦争(1904~1905年)に勝ち、支那や朝鮮との差が歴然としました。また、支那・満州・朝鮮に日本は権益を獲得しました。このような現実を踏まえて、日本がアジアのリーダーになってアジア諸国の連携を推進し、欧米列強に対抗しよう、というように大アジア主義は変わっていきました。
東アジアにはもともと国境の概念がないので、日本人は日本と支那や朝鮮との連携を、大名たちの同盟関係のような感覚で考えていました。