是清は、詐欺事件に遭って素浪人になった

是清は、明治3年満17歳の時に放蕩が理由で大学南校を辞めてからしばらくの間、人生の方向が定まらず、色々なことをやっていました。

明治4年 九州の唐津で英語の先生をした
明治5年 翻訳要員として大蔵省の役人になるが、上司と衝突して辞職
明治6年 文部省の役人になって翻訳の業務を行った
明治8年 文部省を辞めて仏教の研究をした

その後も様々な職を転々とし、ある程度の財産を作りました。是清はこれを元手に相場をやって、有為な青年のための奨学金制度を作ろうとしました。しかしそれが失敗して財産を失いました。

明治14年(是清は満27歳)、日本でも特許や商標の登録制度を作ろうということになりました。是清はかつて役人だった時にこの件を調べたことがあったので、それを思い出した役人の推薦で農商務省の役人になりました。やがてこの分野の専門家になり、商標登録所長にまでなりました。

是清が農商務省で順調に活躍していた明治22年(是清は満34歳)、日本人の金持ちの間でペルーのカラワカラの銀鉱山を採掘する事業の話が持ち上がりました。日本の鉱山学の権威が配下の田島という技師を現地に派遣して調査したところ、非常に有望だと分かったのです。是清もこの事業に出資しました。

出資者たちは、是清に日本側代表になって現地に駐在してくれと懇願しましたが、彼は農商務省の仕事があるので断りました。しかし出資者たちは農商務大臣と交渉して、是清がこの事業に専念する許可をとりつけました。

そこで是清はペルーとの合弁企業の日本側代表となって現地に赴きました。ところがこれが詐欺事件で、田島という技師は鉱山を実地に調査していないことが分かりました。結局是清はこの事業を中止し、株式会社を解散しました。

是清は全財産を失いました。彼はペルーに行く前に役所を休職していましたが、今さら戻ることもできず、素浪人になりました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする