大乗仏教は、人間は全て全く同じだ、と教えている

キリスト教は、それぞれの人間が異なる使命とそれを成し遂げるために必要な能力と権限とを神から与えられている、と考えます。人間は一人一人異なって当然であり、キリスト教は人間を区別する宗教です。神道も組織の中でそれぞれが異なる役目を担っていると考えるので、キリスト教と同じく人間を区別する宗教です。

ところが大乗仏教は、人間を区別することはできない、と主張しています。大乗仏教の教義は非常にややこしく一般の常識とはかけ離れています。これをあえて簡単に説明すると、「すべての人間はまったく同じである。皮膚の色も性格も才能も何もかも、まったく同じである」というものです。

「それぞれの人間は見た目が違うように見えるが、それは錯覚である」というのです。意味がよく分からないと思うので、『仏説無量寿経』を用いて説明します。このお経は浄土宗と浄土真宗が重視しているもので、日本人に非常に大きな影響を与えています。

この経典は、すべての人の肌の色は金色である、と主張しています。世の中には色々な肌の人間が存在するように見えるが、それは目の錯覚であって、本当は金色なのです。また顔が美しい人間と醜い人間があるようにも見えるが、これも錯覚であって容貌の個人差などない、とも言っています。また能力にも個人差がないとも主張しています。

つまり大乗仏教は、人間を区別してはならない、と主張しているのではありません。個人の差などもともと存在しないのだから、区別できない、と言っているのです。それぞれの人間に違いがあるように見えるのは、修行が足りず自分の欲望を抑えることができないために世の中を歪んで見ているためだ、というわけです。

黒人は、どう見ても自分たち日本人とは違います。ところが大乗仏教の教えを1000年以上繰り返して聞かされると、違いを素直に認めることができなくなります。

「違いがあるように見えるのは自分の心が正しくないからであって、本当は人間はみな同じなのだ」と自分に言い聞かせるようになります。そして仕草とか言葉とかちょっとしたことが日本人と同じだと、そこに注目して「結局、人間はみな同じなのだ」と考えて安心するのです。

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