人種差別撤廃が絶対に正しい、とは欧米人は思っていなかった

「日本が人種差別撤廃をパリ講和会議で主張したのは正しい。正しいことを行った結果戦争になったとしても、それはやむを得ない」と考えられる方もいらっしゃると思います。しかし私は、日本が100%正しかった、と主張するのは無理だと考えています。

人種差別を認める考えの根底にあるのは、それぞれの人間はもともと個性的で違っているという発想です。それぞれが違うのだから、区別して扱うのも当然なのです。一方、人種差別を認めない立場は、あらゆる人間は平等であって違いはない、という認識から来ています。みんなまったく同じなのだから、差別するのは正しくありません。

この違いは、人間という存在に対する基本的な認識の違いから来ているので、どちらが正しいか決められる問題ではありません。そしてどちらの考え方も宗教的な確信から来ているので、議論しても並行線をたどるだけです。

日本人は、あらゆる人間は同じだと考えている側に立っていますが、世界的に見れば少数派です。「欧米にも平等という考え方があるではないか」というご指摘があろうかと思いますが、日本人が考える平等と欧米人の平等は違うのです。欧米キリスト教社会の平等は、人間の不平等を前提にしています。

旧約聖書の『創世記』では、神は六日間で世界を作ったと書かれています。6日目の夕方に神は、男と女を作りました。キリスト教では、人間は自然の働きによって発生したものではなく、神が作ったものです。

神は自分の好みのままに人間を一人一人手作りしました。それぞれの人間になすべき使命を授け、それを成し遂げるために必要な能力や権限を与えました。使命が人間によって異なるので、その達成のために必要な能力や権限も当然ながら異なります。

例えば、旧約聖書に登場するモーゼは、エジプトで奴隷になっていたユダヤ人を救い出すという使命を神から授かり、そのためにナイル川の水を血に変えたりする超能力をも授かりました。

西欧の君主は、戴冠式で神の代理人であるローマ教皇から王冠をかぶせられました。神がその君主にその国を治める使命を授けたということです。その君主が統治をするのに必要な特権をも神は彼に与えました。

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