欧米人はキリスト教の信仰によって、個々の人間は為すべき使命もそれを成し遂げるための能力や権限・環境もそれぞれに異なる、と考えています。従って人間を区別することは当然だと考えています。
キリスト教は、人間を区別する宗教であり、人間はもともと不平等に作られていると考える宗教なのです。従ってキリスト教の信仰から生まれたEquality(平等)という考え方は、適用範囲が狭いのです。
その人間の使命を果たす分野においては、彼は他の人間にはない特権が認められていて、使命と関係のないプライベートな部分についてのみ平等が認められます。例えばお巡りさんは、職務で市中を見回りしている時に、不審者に対して職務質問をすることができます。これは普通の人には認められていない特権です。
しかしそのお巡りさんも、休日に道行く人に色々と尋ねることは許されません。またお巡りさんだからといって、店の商品を特別に安くするように要求することはできません。休日の買い物はお巡りさんの職務と関係がないので、一般人と同じ扱いが必要です。
上記の説明は当たり前で、誰もその理屈がおかしいとは思わないでしょう。それはキリスト教の考え方と神道の考え方がきわめて似ていて、神道にも「役目」という概念があるからです。その一方で、日本には「人間はもともと平等なのだ」という大乗仏教の考え方もあるので、時として役目の違いを無視して平等を主張することがあります。これが「悪平等」と呼ばれている現象です。
キリスト教は個々の人間を区別しますが、またキリスト教徒と異教徒を区別します。キリスト教徒は、神の力によって心が正しくなっていると考えます。干渉しなくても悪いことはしないということから、彼らには自由を認めます。
異教徒は神によって心を正しくされることがないので、欲望のままに野蛮なことをします。そのために自分も周囲も不幸になるので、キリスト教徒は彼らを改宗させて助けてやろうとします。欧米列強が植民地や維新後の日本に大勢の宣教師を送り込んだのは、こういう理由です。欧米列強からしたら、異教徒を改宗させるのは隣人愛の実践なのです。