「2300年前に支那や朝鮮から渡来人がやってきて日本に稲作を持ち込み、未開な縄文人を駆逐した。今の日本人は渡来人の子孫で、縄文人の血はわずかしか入っていない」という弥生人渡来説は、明治時代に日本に来たお雇い外国人が始めたようです。
ドイツから来て東京帝国大学医学部を創設したベルツは骨相学が好きで、日本人には二つの系統があると考えました。薩摩系はマレーから渡来し、長州系は蒙古から来たというのです。大森貝塚を発見したモースは、天皇陛下の先祖が日本に渡来して縄文人を滅ぼした、と考えました。
彼らの弟子の日本人学者はこれらの学説の枠組みを継承して100年以上経ったために、従来の学説と矛盾する新しい事実が出てきても、考えを変えることができなくなっているようです。戦前は「弥生人渡来人説」を遠慮しながら発表していましたが、敗戦後は遠慮がなくなりました。
その後、炭素14年代測定法の普及と遺伝子工学の発達により、考古学上の発見が相次ぎました。40年ほど前に福岡県の板付遺跡で、大発見がありました。3000年前の縄文時代に、縄文式土器を使っていた縄文人が用水路を作り水田で稲作をしていたことが分かり、日本中が大騒ぎになりました。それまでは2300年ほど前に支那や朝鮮からの渡来人がやってきて、弥生式土器を作り稲作を始めたと考えられていたからです。
その後も大きな考古学上の発見が相次ぎ、特に1990年代には二つの大発見がありました。青森県の三内丸山遺跡(5500年前から1500年間続いた縄文集落)は、人口が500人以上いた大集落だったことがわかり、大麦・栗・ヒエ・豆・キビ・エゴマを栽培していたことも分かりました。稲作こそしていなかったものの、縄文人が5000年以上前に農業を営んでいたのです。
青森県大平山元遺跡から、16000年前の縄文土器が発見されました。それまでは9000年ほど前に西アジアで初めて土器が作られたということになっていたので、縄文土器は世界最古の土器だということになります。